日々ありがとうございます。
先日、教会長会議の席上で
白さん、藤末さんから
参議院選挙に対する
ご挨拶の中で、自身への反省と
応援してくださった会員の皆さまに
感謝の言葉をいただきました。
私たち奈良教会の皆さまと共に
政治の有様や選挙の大切さなど
其々に深めることができたことは
大きな成果であったと言えますが、
結果からも多くの学びを
得たように思います。
引き続き政治に関心を持ち、
主権者である私たち一人ひとりの
為すべきことを実行して
参りたいと存じます。
それでは、9月号佼成
「信じるものがある幸せ― 禅定」
に学ばせていただきたいと存じます。
「心が乱れるのは菩薩失格か?」
ですが、
【仏の教えを学ぶ私たちは、
慈悲の心で他を思いやり、
その実践をとおして人としての
成長をめざしています。】
と菩薩行について
示してくださいました。
その心持ちを常に
持ち続けている状態を
「禅定」というのですが、
かく言う私も皆さんの
お役に立てているのだろうかと
揺れることもあります。
そのように感じるときに
菩薩として失格のような
気持になります。
それを会長先生は、
人間である以上
動揺も迷いもしないのは
むずかしい事(中略)
新たな出会いの連続です。
その中では、ときに動揺したり、
冷静さを失ったりすることもあります。
(中略)その事実をまず、
きちんと受け止めることが大切、
心が定まらないという
現実を直視すればこそ、
価値あるものを得たい、
つかみたい気持ちによって
この教え(法)に出会ったことを
思い出させていただきました。
また、迷ったり悩んだりすること、
心が揺れ動くことは
生きている証しという言葉に
大きな安心を感じたのは
私だけではないのでしょう。
「「真理という月」を見る」
の月明かりに言及して、
真理を見ようとしない人は、
闇夜を手探りで歩むときに似て、
いつも不安や焦りや恐れを
胸にかかえて生きている
ということでしょう。
と真理の光が如何に大切なのかを
お教えくださいました。
更に、あらゆるものごとは
縁によって起こるという
根本的な真理を自分の
行動、目の前の問題と
重ねあわせる習慣を身につけ、
悩みや苦しみから解放される
安心を常に感じて参りたいものです。
その心持ちが『禅定』
というのかもしれません。
先日、ある青年が
東南アジアや北アフリカなどを
バックパックで渡航した話を
伺いました。
現地の方との出会いは
どれも貴重な出会いで、
サッカーボール一つで
仲良くなるような様子を
教えて下さいました。
その彼が、
帰国して最も感動したのは
青々とした山並みや
きれいな空の色を
目にしたときだったそうです。
それは、現地ではずっと目線より
下ばかり見ていたからだったと、
目線を上にあげることが
皆無であったようです。
理由は、家畜のフンを
踏まないためでもあり、
また身の危険から
周囲に気を張る必要から
ということでした。
しかし、私たちは
当たり前のように目線を
上にあげることができます。
山や空や月の様子を目にする
ことができるのは、
大きな安心の中にある
証拠とも言えます。
情勢不安なところ
(自身に置き換えると
“とき”とも言えましょう。)
は明るく照らす月を
目にすることは難しいですが、
それでも月は私たちを優しく照
らし続けてくれていることを
忘れずにいたいものです。
今回、月明かりのお話が
ありましたが、
私の幼少期に家から銭湯への
道すがら見上げた
大きく真ん丸で目が痛くなるほどの
月明かりの記憶を思い出しました。
明るく照らす月のように
暗い道を照らされている
今の境涯に感謝し、
誰にも見上げれば
私の行き先を照らす
月明かりがあることを、
伝えて参りたいと決定いたします。
合掌
立正佼成会奈良教会長 中村浩士拝