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まほろば 奈良教会長コラム

令和4年5月度 ご法話を学んで

2022.5.1

【佼成5月号】

(朗読 MP3)

令和4年5月度 ご法話を学んで



 

5月は奈良教会としても、
平和活動に重点を置いた精進に
取り組ませて頂いております。

アフリカ毛布、ユニセフ募金、
政治学習会や平和学習会などを
通して世界の状況や、
日本国内における諸課題について
論議を重ねて参りました。

ぜひとも皆さまにおかれましては、
積極的に学びの機会に触れて頂き
より教えに則した過ごし方を
深めて頂けたらと存じます。

今月は、『我慢しない―忍辱』から
忍辱とは我慢をすることと
理解しがちなところを
きっかけに学ばせて頂きたいものです。

耐える力が具わっている・・・
まずは会長先生が毎月ご命日ごとに
お出まし頂いていることや、
佼成誌にご法話を賜ることに
如何に感謝が無かったかを
思い知らされます。

苦手なことから
逃げ出したい気持ちが
ありながらも
私たち会員のためにと
立ち続けて下さっていることは、
私自身にも逃げたい衝動に
駆られることは
何度もあるわけですが、
皆さんも実際に逃げ回っている
ばかりもできないことは、
大なり小なり体験させて
頂いていることと存じます。

そのことは、積み重ねのおかげで、
苦手が得手になるわけではありませんが、
苦手に向き合ったことは
意味があることであったと
年とともに理解できていくのでしょう。

見方によっては嫌な事や辛い事も、
それに耐えて受け入れることに
よって生きる支えにする力が
具わっていると
示してくださいました。

その力を発揮したいものです。

無量義経の一説から、
「起こさしめ」
は無理に怒りを抑えなさい、
我慢しなさいと
示されているのではない。

それは自然に耐える気持ちが
「起こさしめられる」
について忍辱は決して
我慢を強いる教えではないと
喝破下さいました。

このことだけでも忘れずに
いたいものです。

「忍」は「認」に通ずる・・・
忍辱は
「受け入れて認めることを
前提にしている」
という文章から、
まずは目の前の人やできごとを
受け入れて認めることが
忍辱を自然に実践する日常に
つながるとあります。

私も前提について調べていましたら、
法華経以外の様々なお経の中にも
忍辱について示された
ワードがありました。

受け入れる「受容」
大地のようにすべてを
受け入れることと同じくや、
私と他人をありのまま
認める心の姿勢など、
とありました。

中でも大切なポイントは
仏性礼拝それを行法としている
私たちは、お相手の個性を
受け入れる心があることを
教えて頂いているわけです。

更に受け入れて認めることは、
自分をも楽にするそうです。

認めてしまえばつらい、
苦しいという思いも軽減されます。

ゼロにはならないことは
実生活に即した受け止め方に
感じます。

また、私が出会った文章には、
(過去に比べて数百倍もの
速くて広い、時や空間を
知るようになったことで、
過度な競争に苦しみ徐々に
他人と疏外されていく現代人は
物質的・精神的・環境的対象に
よって心が動かされながら生きていく。

しかし、これを受け入れて
認める練習をすることが
できていると、次の段階で
耐えるのが少しは
易しくなるであろう。)

とありました。
このことは現代に生きる
私たちにこそ大切にすることで
日々を安心して過ごしていける
のではないかと思います。

(自他ともに凡夫(ただびと)
であり、賢さも愚かさも
持ち合わせていることを認める)

とありますが、
これも忘れずいつも心に
持っておきたい心の姿勢です。
最後に、忍辱が菩薩の精進に
列していることを踏まえますと
利他の側面を忘れないことが、
自分だけが損をしている、
だれも理解してくれないなどの
孤独の中にいる苦しみから
脱却できることは
言わずもがなと思います。合 掌

立正佼成会 奈良教会長 中村浩士拝