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まほろば 奈良教会長コラム

令和元年十月度 ご法話を学んで

2019.10.1

 

「違い」があるからこそ

 

日々ありがとうございます。

この度は、第十六回奈良県宗教者フォーラムが皆様のご協力とご尽力によって無事に開催されました事、この場をお借りして御礼申し上げます。また、引き続き、会長先生、奥様の奈良教会へのご来道を賜り会員一同、新たに仏性開顕、修行精進、布教伝道の誓願の決定をさせて頂くことができましたこと重ねて感謝申し上げます。

 

今月は、『「仏」を供養する』と題して、ご法話を頂戴しましたが、特に前半の『なぜ「仏」がたくさんいるのか』の中で、『人間・釈尊が、悟りに至るまでに出会った人や、教えを受けた人、さらには、真理を伝える旅でふれあった人びと、そうした人たちすべてを「仏」と受けとめる見方に立って読むと、先の経文も違って見えてきます。』とお示しいただいたところを鑑みると、前出の奈良県宗教者フォーラムには、奈良県内の様々な教団、宗旨、宗派の著名な宗教者の方々が、奈良教会を会場としてご参集頂きました。その様は、法華経にもあるような、様々な方々との出会いによって、より良い自分となっていくために必要な出会いと観じることもできそうです。

更に、『日々に出会う一人ひとりを、釈尊に倣って「仏」と受けとめるとき、この経典の一節が、私たちの日常生活における実践課題として身に迫ってくるのではないでしょうか。』というお心を受けとめると、多くの人々との出会いとは、きっと何らかの意味があるのだと理解できるのではないでしょうか。

 

後半の『「供養」の基本は思いやり』の中で、『自分は本来、清浄な心をもつ仏なのだと自覚すれば、自分も仏、目の前にいる相手も仏ということで、それは、「出会う人はみな、すべて仏」と信じ、受けとめることにほかなりません。』とご指導いただいました。今、私と出会っている目の前の方は、私が人として向上していく上で必要な方であるという根本的な考え方にたどり着くことができるのではないかと存じます。

自身にとって必要な存在に対して、大切に思うのであれば「恭敬・尊重・讃歎」の気持ちを示す「供養」を行うことも不思議ではなく、むしろ当たり前の事とも言えます。では、その「供養」とは具体的にいうと、教えを実践することであり、釈尊のように慈悲の心で日々を送る。『人の悩み苦しみが少しでも少なるように、楽しみが多くなるようにと願って、人を思いやることです。』このことから、先にあったように、より良い自分となっていくために必要な出会いを繰り返すことで、思いやりがあふれる人間になるにつれ「仏」に近づくのでしょう。と締めてくださいました。

 

重ねになりますが、奈良県宗教者フォーラムに引き続き、翌日には、橿原神宮さまへの正式参拝もお手配いただき、その足で、奈良教会へのご来道を頂戴しました。四名の会員代表の功徳の発表をお聴きいただき、主席随行の澤田総務部長から奈良県における宗教協力のうねりの礎について教えていただき、奥様からも、当たり前のことを当たり前にできるようになることの大切さを教えて頂きました。

最後に、会長先生の大いなるお慈悲の中に、入れて頂いている安心感と、全ての人の幸せを願って下さっているお心に報恩感謝で修行精進を決定して参りたいと存じます。

今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士