令和元年七月度 ご法話を学んで
「自由自在」に生きる
日々ありがとうございます。先日、近畿支教区が受け入れとして、全国の壮年幹部さんが参集され、壮年総会が開催されました。奈良教会においても、多くの壮年部さん方にお越しいただき奈良県中をご布教して下さいました。この場を借りて、様々な出会いをしてくださいました事に感謝申し上げます。
今月は、『「自由自在」に生きる』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。
前項の【ほんとうの「自由」と「自在」】にて『私たちは、自分の思うままに行動出来ることを「自由」といい、それが「自在」な生き方だと思っています。』というお言葉に、あくまでも私のイメージですが、目の前には広大で遮るものが無いどこに向かうのも自分の気分次第でいかようにもなる状況を、自由自在なのだと漠然と思い描いていた期間が長くあったように思います。当然、現実では周りには好むと好まざるとにかかわらず、たくさんの人が存在していて、自分の思いどおりに出来ることが「自由」だと思っていると、自身ではままならない場面にぶつかる度に『不足、不満、苛立ち、苦しみを覚えることで、不自由な思いが募る』と、これは自由を求めながら、不自由を招いているのだと、教えて頂きました
後項では『【三界は我が有なり」の気持ちで】では「「智慧の楽」を与えて、ほんとうの自由自在な人生を送らせてあげよう」という仏さまのおこころについてお示しくださいました。
目の前に私に与えられた二つのおにぎりがあるとして、自分と別に四人のお腹を空かせた人がいたときに、自分のおにぎりを一人で食べたいと思う気持ち【貪り:むさぼり】、貰えなかった人たちの、恨んだり妬んだりする感情【瞋り:いかり】どちらも苦悩の一つです。
「智慧の楽」とは、その足りない分のおにぎりを仏さまにプレゼントしてもらうことではなく、『その不足が、もたらす苦悩を、自他の向上につながる楽しみや喜びとして受けとめられるようになることが「智慧の楽」ということです。』と学ばせて頂きました。
苦悩を楽しみに変えていくほんとうの「自由自在」な生き方とは、『目の前にある、小さな幸せをかみしめたり、喜びを人と分かちあったりすることで、苦悩を楽しみに変えていく』こととあわせて、「今此の三界は、皆是れ我が有なり」(この世界・宇宙は私のものです)という一節を紐解いて下さり、『私たちはそれぞれに独自の尊い命を生きながら、大自然の一部としてすべてと調和し、生かされています。それは宇宙全体が私と一体であり、我がものだということです。』と、全てが自分のもの、関係のあるものと捉えることができれば、お互いを尊重しつつ共に手を携えて、仲良く修行精進ができるのだと、受け止めさせて頂きました。それを噛みしめた時《すべては自分》という言葉の心境は、先のような気持ちのことを学んできたのではないかと改めて思い、日々の生活を見ている視野がとても広く感じることができました。
最後に、会長先生から先の、おにぎり二つは皆さんならどのようにされるでしょうか?とお尋ね頂きました。わたしは、先ずみんなで相談することにさせて頂こうと思います。改めて伺いますが、皆さんはどのようにされるでしょうか?
それでは、今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。
合 掌
奈良教会長 中村 浩士