「習学」仏の教えにそった生き方を身につけていこう!
~信仰に根ざした生活すべてが「習学」~
日々ありがとうございます。
今月は、『仏の教えを習い、学ぶ』と題して、会長先生よりご法話を頂戴しました。
前項の【「習学」は日常のなかに】では、法華経の方便品の中に見られる「習学」というキーワードについてお教えくださいました。
『仏さまは、たくさんの手だてを使って、常にそれぞれの人にふさわしい法を説いているのですが、「習学せざる者」は、そのことに気づくことができないというのです。』と投げ掛けてくださいました。しかし、逆に捉えると「習学」さえすることができれば、自分にとって必要な仏さまのメッセージに、気がつくことができるのだという、重要なポイントをお示しくださいました。
更に、その受けとめ方をエゴノキという植物を詠んだ句の表現、〈樹の声が溢れている〉という植物の存在や佇まいから様々な声(メッセージ)を語りかけられているように「樹の声」を受けとめる感性を磨くことの大切さと、そこで、『自然の摂理をはじめ、さまざまなできごとのなかに真理を感じとり、仏の声を聴こうとすることで、私たちは、自分の思い上がりや欲得ずくの考えを反省したり、生きる勇気を得たりして、また、新たな一歩を踏み出します。その繰り返しを「習学」というのです。』と、「習学」について教えて下さいました。
後項の、【実践してこそ「習学」】では、『日々、私たちの周囲で起こるできごとは、仏が「万億の方便」を駆使して説く法にほかなりません。受けとめようとする心があれば、だれでもそれに気づくことができます。』『ただ、「習学」は知識を得るものというよりも、実践を繰り返すなかで「仏の教えにそった生き方を身につけていく」ものです。』と、「習学」のあり方もご指導下さいました。それを、『困難なことに直面しても、そのことから「自分はいま、何を教えられているのか」を学び、前向きな実践につなげて、その生き方を自分のものにしていくのです。』と会員としての修行精進について教えて頂いたものと受けとめさせて頂きました。
しかし、私たちはいつも好調な心もちのままとはいかず、迷うことがあるときにも、私たちは、仏さまへ心を振りむけるに、「ご供養」、「導き・手どり・法座」、「ご法の習学」の三つを「基本信行」としていますが、ご供養も法座修行も「ご法の習学」の一環で、【信仰に根ざした生活すべてが「習学」に集約される】とまとめて下さいました。
このご法話を通して、私は、どんな時も、どんな状況下にあっても、いつも仏さまのメッセージを受けとめることができる自分づくりをしつつ、仏になる生き方として菩薩行と、三つの基本信行を欠かさず、様々な出来事に感謝のできる日々の大切さを学ばせて頂きました。
六月は令和元年度も半分が経過し、これから総決算に向かう下半期に入ってまいります。
お互いさま、「習学」の意味を理解し、なんのために修行し、どのように受けとめ、どんな自分となっていくのかを、あらためて深めてまいりましょう。
ご法話の最後にもあるとおり、私たちに菩薩の精神が宿っているとゆうことは、誰一人として自分だけが幸せになればいいと考える人はいないということにもつながり、このサンガの仲間を、更に広げていくために、法を伝えることも大事な「習学」と結んでいただきました。
先日の青年の日(五月一九日(日))において、東大寺の南大門前や各駅頭などで行われた、一食(いちじき)ユニセフ募金では、多くの方々にご支援いただき、おかげさまで貴重な出会いをたくさん頂戴しました。募金を入れたこともない青年が募金のお願いが出来るまでに心が変化し、人の役に立つ決意をしました。また、8歳の少女菩薩は炎天下の中でも募金活動を頑張りながら、自身も昼食を我慢して、世界の困っている友達のために献金をすることができました。青年さん方が超えた努力のハードルを、六月は壮年部さん方が超える順番となりました。いよいよ大阪で開催される壮年総会(六月二十九日(土)、三〇日(日))に向けて更なる、突破を期待しております。それでは、今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。
合 掌
奈良教会長 中村 浩士
まほろば 奈良教会長コラム
令和元年六月度実践目標
2019.6.1