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まほろば 奈良教会長コラム

平成三十年十一月度実践目標

2018.11.1

平成三十年十一月度実践目標

人さまの 幸せ願って 今に集中!

 

いよいよ、開祖さま生誕会の月を迎えました。開祖さまが佼成会を創立した意義をかみしめ、「報恩感謝」と新たなる「誓願」をさせて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは「思いやりを、いつも心に」です。次のようにご指導下さってます。

 

そろそろ温泉のぬくもりが恋しい季節になってきました。たっぷりの湯につかり、思わず「極楽、極楽」とつぶやく、そんな瞬間に安らぎを覚える人も多いことでしょう。心が安らかで楽しいとき、たとえそれが温泉につかっているときであっても、私たちは、思い煩いや恨みつらみといった感情を離れているのではないでしょうか。迷いやとらわれが心からするりとほどけ、何にも縛られない、安らかでのびのびとした自分がそこにいます。

「仏」という漢字は、日本語で「ほとけ」と読み、執着・こだわりから解き放たれた「ほどける」が転じたものという説があります。ですから、ほんのひとときでも、安楽で、なんの心配もないときがあるとすれば、それはまさに自分を縛るものから離れた「仏の境地」といっていいのかもしれません。

ところで、仏教では、「心を常に正しい方向に向ける」ことが大切といわれます。これは、釈尊が最初の説法で説かれた「八正道」の七番目に示された「正念」のことです。ただ、「正しい方向とは何かが、よくわからない」というのが、多くの人の本音だと思います。端的にいえば、「仏」や「真理」に心を向けることですが、これも少しわかりにくいといわれそうです。そこで、私なりに理解するところでいうと、先にお話ししたような「心がほどけ、安らかで楽しいとき」こそ、心が正しい方向にあるといえると思うのです。

法華三部経の一つで仏説観普賢菩薩行法経に、「もろもろの迷いや煩いから離れ、安楽で淡々とした心を保ちたいのであれば」(常に涅槃の城に処し 安楽にして心たんぱくならんと欲せば)という、私たちにとっては願ってもない問いと、その答えともいうべき一節があります。それは、「当に大乗経を誦して 諸々の菩薩の母を念ずべし」。すなわち、

朝夕の読経を習慣とし、「慈悲、思いやりの心をもって生きよう」と願うことだというのです。

ときおり、「慈悲がなかなか身につかない」と嘆く人がいます。しかし、その人はまさに「思いやりをもって生きよう」「あの人を数ってあげられたら」と願っているからこそ、そのことで思い悩むのでしょう。つまり、その人はもうすでに、思いやりの心が身についているのです。また、「正念」の意味を「気づかい」「心くばり」と表現する人もいますが、茶道の裏千家前家元である千玄室師は、「『あなたがお幸せでありますように』、ただその

一念で相手に仕える」といわれます。雑念を捨て、自分の「いま」に集中する。さらに、自分の思いは差し置いて、人さまが喜ぶように、幸せでありますようにと願いつつ、心を

一つのことに向ける。それもまた、「正念」でありましょう。