信じて尋ね、信じて言い切る言葉こそ 真実の慈悲!
盂蘭盆会の月を迎えました。
利供養・敬供養・行供養を通し、ご先祖さまに真心からの回向させて頂きたいと思います。
会長先生のテーマは「和らぎをもたらす言葉」です。次のようにご指導下さってます。
釈尊の基本的な教えである「八正道」の一つに「正語」があります。真理にかなう言葉を語るということですが、私たちはふだん、そのように「正しく語る」ことを、ほとんど意識していないのではないでしょうか。「正語」を実践するうえで大事なのは、何をどう話すかということよりも、正直に生きる誠実さを忘れないことなのかもしれません。
言葉の内容ではなく、対話する相手と向きあう姿勢ということで思い起こすのは、ノーベル平和賞の選考委員も務められた、ノルウェー国教会オスロ名誉司教のグナール・スタルセット師(第三十回庭野平和賞受賞者)です。スタルセット師は、国際会議の席で意見が分かれるようなときでも、その場をじつにうまくまとめていかれます。とはいえ、師が饒舌なのではありません。むしろ、寡黙なかたです。さまざまな声にじっくりと耳を傾け、求められれば穏やかに見解を述べつつ、最後に「では、このようにしてはどうでしょうか」と、みなさんに諮るのです。
立場の違う人が集まる席では、議論が紛糾することもあります。そこに調和をもたらすのは、人の意見をよく聞いて思いを酌みとる姿勢と、自我を抑えた公平な態度から発せられる言葉だということでしょう。師の示すこの姿勢には「正語」の意味あいの核心が示されていると思うのです。
日本語で、漢字の「愛」は「かなし」といいます。愛する、慈しむということは、悲しむということであります。母親がわが子を愛おしむ心、といえばわかりやすいかもしれません。
「正語」、すなわち「正しく語る」ということのなかには、そうした慈しみ、悲しむ心と、相手の幸せを念ずる情が籠められているのではないでしょうか。
「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり」とは道元禅師の言葉ですが、スタルセット師の言葉には、宗教者に共通する慈愛の念が籠められており、だからこそだれにも受け入れられるのだと思います。そういえば、良寛さんが放蕩三昧の甥を改心させたのは、説諭の言葉でも叱責でもなく、甥を思って流したひと筋の涙でした。慈愛に満ちた沈黙によって伝わる「正語」もあるということです。
私たちの幸せをだれよりも念じてくださる両親やご先祖の愛心を、まもなく開花を迎える清らかな蓮華を愛でながら、この盂蘭盆の時期にあらためてかみしめてみるのもいいのではないでしょうか。
まほろば 奈良教会長コラム
平成三十年七月度実践目標
2018.7.1