知る・わかる・できるの実践で
ピンチをチャンスに転換する智慧に!
今年度も、後半の月を迎えました。後半も「有り難し」と、心に法の種を蒔いて感謝の真因に気づく布教伝道に邁進したいと思います会長先生のテーマは、「愚痴をいわない」です。次のようにご指導下さってます。
不都合なことに遭うと、私たちは不平不満を口にしがちです。俗にいう「愚痴をこぼす」わけですが、この「愚痴」という熟語の二文字は、どちらも「おろか」を意味します。また、
愚痴には「いっても仕方がないことをいって嘆くこと」という意味があります。確かに私たちは、いってもムダと知りつつも不平不満をいい、ときには思いどおりにならないことを人のせいにしてまで愚痴をこぼすのです。
私たちがなぜ、そこからなかなか抜けだせないのかといえば、自分の知っていること、思っていること、考えていることが「絶対に間違いない」という錯覚にとらわれているからです。まさに、「私は知っている」という病気にかかっているのです。
「私が正しい」「私は知っている」という気持ちが愚痴の原因の一つだとすれば、その心を省みることにより、不満や文句が少なくなりそうです。そして、反省することよってものごとに対する洞察が深まると、不平や不満の対象としか思えなかったことが、「仏の説法」と受けとれるのではないでしょうか。日ごろから仏の教えに親しんでいると、愚痴をこぼしそうなときでも智慧の心がそれを鎮めてくれる。と経文にあります。「愚痴多き者には智慧の心を起こさしめ」という一節ですが、愚痴の対象が「自分に大切なことを教える仏の説法だった」と思えたとき、そこには智慧の心がはたらいているといえそうです。
そういう心のはたらきを、よりしっかりと自分のものにする方法があります。それは、この世に共通する真理、つまり「真実の道理」を知ることです。この世のあらゆるものが、一つにつながるご縁によって生かされているという事実。その恩恵を受けて、いま自分がここに存在するという有り難さ。このことが明らかになり、感謝できると、愚痴は出てこないのではないでしょうか。ひとことでいえば、天地自然の道理がわかれば愚痴はいえなくなるということです。
経文には「若し愚痴多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち痴を離るることを得ん」ともあります。観音さまを念じ、敬う心をもちつづけると、愚痴を離れることができるというのです。それでも愚痴をこぼしそうになったら、「智慧がはたらくチャンスだ」と気持ちを明るく切り替え、あるいは日々の読経供養をとおして心を見つめなおして、真理にそったものの見方・受けとめ方に立ちもどればいいのです。
まほろば 奈良教会長コラム
平成29年6月度実践目標
2017.6.1