いのち(真理のはたらき)を自覚し
ムダ・ムラ・ムリなく、相手と調和する努力を!
降誕会の月を迎えました。お釈迦さまのご生誕をお祝いし、お互いさま
今、いのちあることに感謝し、法の悦びを伝えてまいりたいと思います。
会長先生のテーマは、「時間の浪費」です。次のようにご指導下さってます。
私たちは、たとえば一日じゅう寝転んで無為に時をすごすことを、時間のむだ遣いといったりします。わずかな時間も惜しんで何かに打ち込む。それが有意義な時間の使い方であり、時間の浪費は人生のむだに他ならない、と。
「毎日を最後の一日だと思って生きなさい」とは、古代ローマの思想家・セネカの言葉です。時間をむだにしないよう、こうした心がけで日々を送ることが大事と、昔からいわれています。ただ、時間の浪費ということを天地自然に照らして考えると、時間そのものに縛られない、もっとゆったりとした大らかな視点がありそうです。
宇宙が誕生した不思議。その宇宙で、生命体が存在するための要素を具えた惑星・地球に、人間として命をいただく不思議。そしていま、天地自然の大調和のなかで生かされていることの不思議・・・・。このような大きな視点で時間の使い方を考えてみると、自分の狭い考えで「あの時間はむだ」とか「浪費だ」とはいえない気がします。
何もせずに寝転んでいる姿は、怠けているようにしか見えないかもしれません。けれども、仏法の本質からすれば、人も物もすべての現象も、どれ一つとして、むだなものはないと見えてきます。「法の体は迷悟なく、凡聖なし」という言葉もあるように、自分勝手に凡夫と聖人を分別するような見方ではない、神仏の大いなるはたらきを感じとることができます。
では、調和の世界に住む私たちにとって、何が「時間の浪費」といえるのでしょうか。
私たちはみな「この世に願って生まれてきた」と、法華経にあります。しかも、それは多くの人の幸せのためにと説かれています。つまり、私たちは調和の世界の一員として、みんなが幸せに生きられるよう、その調和を保つために生まれ、かつ生かされているということです。
道元禅師は「生死流転する自分の身心を省みて、自分よりも他の人が先に幸せになるようにと願う菩薩の心を起こしなさい」と書き残しています。無常、さらには絶妙のバランスでこの世を成り立たせている天地自然の不思議を観じたならば、ともに調和を築く者として、お互いに尊重しあい、仲よく生きなさいというお諭しでしょう。
日本はいま、ちょうど草花の萌え出づる春を迎えています。その草花を愛で楽しむことは、命の不思議や無常を観じる感性にも通じます。それはまた、いまを精いっぱい生きることの大事を知る機会でもあるのです。
まほろば 奈良教会長コラム
平成29年4月度実践目標
2017.4.1