まほろば 奈良教会長コラム

平成29年3月度実践目標

2017.3.1

創立の精神をかみしめ、大らかに楽々と、悦びの種を

           蒔きに歩きましょう。

 

創立の月を迎えました。本会の創立をお祝いするとともに、創立の意義を深く認識し、新たな決意で精進をお誓いしたいと思います。

会長先生のテーマは、「肯定的か、否定的か」です。次のようにご指導下さってます。

 

人は、年齢とともに体のあちこちに支障が出てくるようです。私も体の痛みや、それにともなう若干の不自由を味わっていますが、そうした現実からいくら逃れたいと思っても、逃れることはできません。そして、そのようなときに心が向かう先は、まず「つらい」「苦しい」「困ったものだ」「早く元どおりに治らないだろうか」といった、いわば現状に対する否定です。体の支障だけでなく、私たちは自分の思いどおりにならない現実を不満に思い、マイナスのこととして見る傾向があるようです。野菜農家にとっては恵みの雨か、洗濯物を干したり、観光を楽しんだりする人にとっては恨みの雨になるように、心は自分に都合よくはたらくことが多いのです。

ただ、「いやだ」「なんてこんなことに」と不満に思ったところで、現実はどうなるものでもありません。ならば、「いやだ」と思うその感情をいったん離れ、客観的に、そして肯定的に現象を観察してみてはどうでしょうか。視野を広げると、心も豊かになると思うのです。

私は、「この体の痛みは、同じような痛みをかかえる人を思いやれるいい体験だ」と受けとめています。

先に「恵みの雨」と「恨みの雨」の話をしました。あれは雨という一つの現象を見るときの一例ですが、ものごとを多面的に見ると、どれほどつらく苦しいことのなかにも、必ず「有り難い」と思える要素が見出せます。なぜなら、この世に無駄なものは一つとしてないからです。仏教学者の紀野一義さんは、「現象やものごとはすべて真実のすがたをあらわしている」という「諸法実相」の教えをもとに「人が生まれたり、死んだりすることも、この世で起こるさまざまな出来事も、その一つ一つを実相として肯定していかなければなりません」といっています。つまり、私たちが見たり聞いたり経験したりすることはすべて、紀野さんの言葉を借りれば「肯定、肯定、絶対肯定」する以外に、受けとめようがないということです。

ものごとを肯定的に受けとめられないときに、自己をふりかえるポイントをおさえてみましょう。人を否定する気持ちが拭えないときには、「やさしさを忘れていないか」。現象を肯定できないときには、「素直さを失っていないか」。この二点です。自分の思い、つまり我でものごとを見るとき、人はやさしさや素直さを見失いがちなのです。

ものごとを肯定して見るとは、大らかに楽々と生きるということです。肯定的な見方と否定的な見方のどちらが幸せかは、そのことでも明らかではないでしょうか。