布教伝道は、「自らの心田を耕す精進」 と
どこまでも謙虚に、仏さまにひれ伏す実践を!
七月に入り、夏休みを迎え、子どもとのふれ合いがいっそう大事になってきます。
会長先生のテーマは、「人を育てる」です。次のようにご指導下さってます。
・親が子を育てる。教師が生徒を教育する。先輩が後輩を育成し、上司が部下の成長をうながす。社会にとって、また家庭や組織にとって、いずれも大事な営みです。それだけに、いつの世においても、人間社会の課題の一つとして教育や人材育成のむずかしさがあげられます。
では、人を育てる立場の人は、「何のために」、そして「だれのために」人を育てるのでしょう。見た目には相手のため、そして組織や集団のためなのでしょうが、私は、一義的には、自分を磨くためのよい機会が人を育てることであり、教育とは相手の縁にふれて自分も共に育つことだと思います。そのように受けとめると、相手に対して過剰な期待をしたり、性急に成果を求めたりすることがなくなります。むしろ、うまくいかないときほど「このご縁は、私に何を教えてくれているのだろう」と自省をうながしてくれます。つまり、教えるより先に自分を磨くこと、それが人を育てる最短の道だというのです。
・ところで、子育てでも組織の人材育成においても、どういう人を育てることを目的とするのかといえば、私は「慈悲心のある人」の一語に尽きると思います。人と調和できる人、いつでも思いやりを忘れない人と言えるでしょう。
では、そういう人をいかにして育てるのかを先の話と重ねあわせて考えてみると、「相手と縁を結ぶ自分がそのような人になる」、それが一番の近道ということになります。思いやりや調和を大事にできる人は、成果を求められる企業でも貴重な人材となりえます。
ただし、気をつけたいのは、相手の成長を願うあまり、期待の言葉をかけすぎることです。ある方は、子どもに願っていることは胸におさめて口にせず、「そうなって欲しい」と思う
ことを親自身が無言のうちに実践することが大事といいます。「人にものを教えることはできない。自ら気づく手助けができるだけだ」といったのは物理学者のガリレオ・ガリレイですが、ほめたり、激励したりしながら、その人のもてる力が最大限に発揮されるような縁になることが、「人を育てる」ということになります。
人を育てる立場の人は、そうした意味でも「自分はまだ至らない、足りない」との謙虚さが大切です。そこで私は、たとえば外出するとき、「行ってきます」ではなく「行ってまいります」と申します。「行って」「参る」~~~すべてを尊い出会いにして、学んで帰ってくる。その繰り返しが自分を磨く習慣となり、自他の胸に慈悲の心を育むことになると思うからです。
まほろば 奈良教会長コラム
平成28年7月度実践目標
2016.7.1