釈尊『降誕会』の月です。私たちの“いのち”をどう生かすかに焦点絞って、布教伝道に、邁進したいと思います。
今月の会長先生のテーマは、「あなたも私も、みな仏」です。
今月の会長先生のテーマは、「あなたも私も、みな仏」です。
・毎年、四月八日の花まつりを迎えると、暖かな春の日が注ぐなか、私たちは花御堂に甘茶を灌いで礼拝し、釈尊の降誕をお祝い申しあげます。そうした機会に「仏さまのようになれるよう、精進いたします」と誓いを新たにする人も多いことでしょう。
ただ、そのとき心のどこかに「自分と仏さまとの隔たりは大きく、あくまでも遠い目標にすぎない」という思いはないでしょうか。善いこともするけれど、釈尊のようにいつでも智慧と慈悲をもって生きられるわけではない、と。
白隠禅師の『坐禅和讃』に、「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし」という一節があります。生仏一如、つまり衆生と仏は本質において一つであり、衆生以外に仏はないということです。そして、この「衆生本来仏なり」の一句を、臨済宗の山田無文師は「仏法の根本原理」といわれ、「この一句がほんとうにわかれば、仏法はすべてわかったといっても、過言ではない」と述べています。
私たちは「凡夫である自分と仏は違うものだ」と思いこんでいる、言葉を換えれば、凡夫と仏の二つがあって、自分は仏になれないと決めつけていますが、そうではないようです。
笑顔で人とあいさつを交わすと心が和んだり、人の苦悩を知れば胸が痛み、人の喜ぶ顔を見ると嬉しくなるのも、私たちが生仏一如、凡聖不二の身にあずかる人間だからでしょう。そして、いつもその自覚に立って歩みつづけるために日々の精進があるのです。
ただ、そのとき心のどこかに「自分と仏さまとの隔たりは大きく、あくまでも遠い目標にすぎない」という思いはないでしょうか。善いこともするけれど、釈尊のようにいつでも智慧と慈悲をもって生きられるわけではない、と。
白隠禅師の『坐禅和讃』に、「衆生本来仏なり、水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし」という一節があります。生仏一如、つまり衆生と仏は本質において一つであり、衆生以外に仏はないということです。そして、この「衆生本来仏なり」の一句を、臨済宗の山田無文師は「仏法の根本原理」といわれ、「この一句がほんとうにわかれば、仏法はすべてわかったといっても、過言ではない」と述べています。
私たちは「凡夫である自分と仏は違うものだ」と思いこんでいる、言葉を換えれば、凡夫と仏の二つがあって、自分は仏になれないと決めつけていますが、そうではないようです。
笑顔で人とあいさつを交わすと心が和んだり、人の苦悩を知れば胸が痛み、人の喜ぶ顔を見ると嬉しくなるのも、私たちが生仏一如、凡聖不二の身にあずかる人間だからでしょう。そして、いつもその自覚に立って歩みつづけるために日々の精進があるのです。
・仏とは、つまり自分が仏であることに気づいた人のことで、それは、自らの尊さに気づくこと、真の自分を知る、ということでもあります。
・「仏種は縁に従って起る」とあるように、サンガ(同信の仲間)において、たとえば法座などであたたかな助言を受け、自分にはないやさしさや明るさにふれたとき、自分もまた明るくあたたかな気持ちになるのも、仏性が感応するから。それはいわば、仏が仏に法を説き、お互いに、求道しているからではないでしょうか。
・真の自分を知る。生仏一如と気づく。それが、私たちの一生のテーマです。しかも、仏道は無上道といわれるように、一度わかってもさらにあくなき探究を、精進をせずにいられないのが人間の本領であります。そして、それは心を具えた生としての仏性のはたらきなのです。
・「仏種は縁に従って起る」とあるように、サンガ(同信の仲間)において、たとえば法座などであたたかな助言を受け、自分にはないやさしさや明るさにふれたとき、自分もまた明るくあたたかな気持ちになるのも、仏性が感応するから。それはいわば、仏が仏に法を説き、お互いに、求道しているからではないでしょうか。
・真の自分を知る。生仏一如と気づく。それが、私たちの一生のテーマです。しかも、仏道は無上道といわれるように、一度わかってもさらにあくなき探究を、精進をせずにいられないのが人間の本領であります。そして、それは心を具えた生としての仏性のはたらきなのです。