朝夕の読経供養の実践を心に、相手の長所を見ていく
布教伝道を心がけ、調和のとれた人間関係を築こう!
今月の会長法話のテーマは「軽んじない」です。
会長先生は、次のようにご指導くださっています。
・法華経の常不軽菩薩品に、みなさんもよくご存じの「我汝を軽しめず」という一句があります。この言葉を私たちの日常に照らすと、人を「軽んじない」とは具体的にどのような姿勢や態度といえるのでしょうか。
道元禅師が「悉有は仏性なり」と受けとられたように、私たちはもちろん、この世のすべては仏性そのものであると教えていただいています。私たちは、みな「仏の御いのち」であるというのです。なかには「自分のように至らない者が、仏性そのものとは思えない」とか「人を憎んだり、欲張ったりすることもある私が仏と同じなんて」と考える人がいるかもしれません。しかし、そのように自分を省みるのは、内からの催しともいうべきものがあるからです。じつは、それこそが仏性そのもののはたらきであり、おのおのが「仏の御いのち」
にほかならないことの証なのです。
・では、その気づきを生活の実践に結びつけ、人を「軽んじない」ために大切なのは何か。
親しい間柄でも「お前」などと呼んだりしないで、敬語を使い、ていねいに話す。できるだけ人の長所を見て、それを称える。もちろん、合掌・礼拝の精神を忘れない。こうしたことが、調和のとれた人間関係を築いていきます。最初は、心がともなわなくても、いつもかたちで示していると、それは自ずから心に影響をおよぼし、常不軽菩薩のように「つねに軽んじない」姿勢が自分のものになります。
ただ一方で、相手を尊ぶがゆえに厳しく接する、といったことがあるかもしれません。人の成長を願うそのような、目の前にいる相手を「仏の御いのち」と観ているかどうかを内省することが大切です。そうすれば、感情に走るとつい口にしがちなトゲのような言葉を放つこともなく、相手を傷つけないで、諭すべきことが冷静に伝えられるのではないでしょうか。
このような言葉や態度は、いずれもみな私たち自身の精進にほかならないわけですが、ただ、それが機縁となって接した相手が自己の尊厳に気づく~そうした交流が、人間らしい心の交わりだと思うのです。
とはいえ、相手を尊重しようと思えば思うほど、忍受しなければならないことが出てくるでしょう。幸い、私たちには朝夕の読経供養などで、心を見つめる機会があります。
合掌・礼拝に徹した常不軽菩薩に倣い、朝には「合掌・礼拝の心で一日をすごそう」と誓い、夕べには「私はきょう、人を軽んじなかっただろうか」と省みて、明日にむかう。
このような地道な実践が、平和な生活の基本であると私は思います。
まほろば 奈良教会長コラム
平成27年11月度実践目標
2015.11.1