「南無」と 心に本仏を勧請し 自ら求めて 法を学び めざめ 信仰の悦び味わおう! 今月の会長法話のテーマは、 「『南無』ということ」です。 後半の月を迎えさせて頂きました。 どのような心で実践させて頂くとよいのでしょうか? 会長先生は、次のようにご指導くださっています。 ・いま私たちが生きている現実の世界は仮のもの、 という意味の言葉に「世間虚仮」があります。 この言葉につづく対句が「唯物是真」、 つまり「ただ仏の世界だけが真実である」というのは、 みなさんもよくご存じだと思います。 これは、他と比べて優劣を評価する 錯覚の世界に生きる私たちも、 本来はみな等しく尊い存在であって、 大小・長短の比較などしなくて よい世界に住んでいるのだ、 ということです また、私たちの生命は有限に見えますが、 本来は無限であり、永遠のいのちなのです。 だから、この世を「仮」といい、 絶対や無限・永遠を本然とする世界を 「真実」というのです。 その「真実」に帰ることを本義とするのが 宗教であり信仰です。 ・「南無」とは、帰依とか帰命を意味し、 「帰る」という字が使われています。 何に帰るのかといえば、「真実」に、です。 ですから「南無妙法蓮華經」は、 「法華経をとおして真実の世界にめざめ、 そのあるがままにおまかせします」 という表明であり、 また真実の世界に生きていることへの 感動を蘇らせる言葉でもあるのです。 その意味で、お題目をより端的に示せば 「南無真実」ということですが、 本来、宗教はみな、ただ一つの真実にめざめる 「南無真実」の立場だといえます。 ・南無や帰依というからには、 「仏さまにすべてをおまかせします」 という強固な信心が必要と思うかもしれません。 法華経にもあるように、 幼子が砂で仏塔をつくるだけでも、 ただひと声「南無仏」と唱えるだけでも、 それは真実にめざめる機縁にほかなりません。 本会でも読経供養の際に三帰依文を唱えているように、 「南無」とは、 仏・法・僧への三宝帰依が基本になっています。 そして、ほぼすべての仏教に共通するこの意味あいを、 私は仏・法・僧の「法」を中心として、 つぎのように受けとっています。 「真実の世界を自覚した私は、 みんながめざめることを願い 仏の教えによってともどもに智慧を得つつ、 多くの人が真実にめざめて幸せを 味わっていただけるように歩みつづけます」 ・自身の自覚を因として、 一人でも多くの人のめざめをと願い、歩む。 それが信仰をもつ悦びであります。