降誕会に私たちの『いのち』を見つめ直し、
ともに智慧の心を起こさしめる法座修行を!
今月の会長法話のテーマは、「未熟を自覚する」です。
さわやかな桜の季節となりました。幸せの基に気づく布教伝道とは? 会長先生は、次のようにご指導くださっています。
・無量義經に、「愚痴多き者には、智慧の心を起こさしめ」という一節があります。「愚痴」とは、未熟なために自分の見識や欲望にとらわれる愚かさのことですが、それが「智慧の心」によって無限の可能性を開く扉になるというのです。
未熟さや愚かさは、それを自覚すれば、いつでも向上のきっかけになります。ところが、「わかっている」という思い上がり・憍慢によって、私たちはみずから向上の芽を摘んでしまいがちなのです。
そうならないための「智慧の心」とは何かといえば、それは「生かされている」という人間としての本然の気づきだと思います。それをとおして謙虚に、素直になるとき、あらゆる可能性の扉が開かれるのです。
・親鸞上人は「愚禿」と称し、良寛禅師は「大愚」というなど、祖師や名僧のなかには、みずから「私は愚かだ」と名のった人が少なからずいます。これも「私ほど未熟で愚かな者はいない」とつねに自分に言い聞かせて、驕りや目先の欲に傾く心を戒めたのでしょう。宗教の世界は、自己の内面を深く見つめていくものだからです。
・一見、否定的とも思える未熟さや愚かさの自覚ですが、私たちの向上や成熟を助ける飛躍台となる、大切なことなのです。さらにその自覚は、「生かされている」という智慧とも相まって、人に対するやさしさや思いやりにつながり、そうして人と相和して暮らすことがほんとうの幸せの基にもなるのです。
・伝教大師最澄は、若いころの著述で「私は愚者のなかの最も愚かなる者」といっています。この自覚から次のような大きな志を打ち立てます。
「私は仏に誓います。悟りによって得られた美味も、安楽の果実も、けっして独りでは味わいません。真理の世界に生きるすべての人とともに悟りの境地に至り、真理の世界に生きるすべての人とともに、悟りの妙味を楽しみたい」このことを端的にあらわすのが、「忘己利他」~己を忘れて他を利する~という教えです。
・私たちは、愚かさを内に抱えながらそのままに、まさに「いのちいっぱい」生きるとき、大きな花が開くのだと思います。