「人さまに喜ばれる布施の実践で、周囲を照らす発光体になろう」
五十年前の五月に大聖堂が落成されて以来、屋上の宝塔に常夜灯(じょうやとう)が灯(とも)り続けているのをご存知ですか? 大聖堂には仏教の精神、開祖さまの願いが象徴されていると伝えられています。この常夜灯には一体、どのような精神が込められているのでしょうか? 会長先生は、次のようにおしゃっています。
・法灯明、自灯明を象徴的に示す常夜灯ですが、ここで大事なのは、私たちは一人の例外もなく、自(みずか)らを灯火(ともしび)として歩むことができる人間である、ということです。自らを灯火として歩むというのは、けっして独立自尊ということではありません。むしろ、あらゆるご縁のなかで法の灯(ひ)を掲(かか)げて他を照らし、さらには広く世を照らす存在として、生きがいをもって人生を歩むことなのです。
・他を照らす存在といえば、私たちにとって釈尊は人間の典型でしょう。ただし、人が掲げる灯明というよりは、太陽のように自ら発光する恒星(こうせい)としてこの宇宙にあらわれ、以来、多くの人がその教えの光に照らされてきました。
・では、そうして仏さまの教えをいただく私たちは、それをもってどのように他を照らすことができるでしょうか。
私は、仕事やお役など、いま自分の目の前にあることに生きがいをもって一所懸命とりくみ、人さまに喜ばれることであれば、それがいちばんのあり方だと思います。
私たちの生活の中心は布施の実践にあります。すなわち、身を使える人は身の布施を、心を使える人は心の布施を、財のある人は財の布施で人さまの役に立ち、人に喜んでもらう…そうした布施の実践こそ、明々(あかあか)と他を照らすことにほかなりません。自分の行ないによって人さまが喜んでくれれば、その時その人は釈尊と同等に、自ら光り輝く発光体、つまり尊い灯明として他を照らしているといえます。
・たとえば月に何回か三度の食を二度に減らし、そのぶんを献金させていただく「一食(いちじき)を捧(ささ)げる運動」などをとおして、無私とか無我の一端にふれることも、布施の心で生活する私たちにとっては大事な実践です。あるいは、愛語を旨(むね)とした良寛(りょうかん)さんのように、いつでも人さまの良いところを見て讃嘆しようと心がけることも、他を照らす一つの布施に違いありません。
・大聖堂の宝塔で灯(とも)りつづける常夜灯は、私たちの心に秘める姿といえるかもしれません。たとえ、小さな灯火(ともしび)であっても、いつでも明るく、あたたかな灯(ひ)で周囲を照らす者でありたいと思います。
今月も一見不都合に思える目の前の人や出来事・「×」(バツ)のなかに、有難いこと・「○」(マル)を見いだし、お伝えし、周囲を照らす、発光体にならせて頂きましょう。
まほろば 奈良教会長コラム
平成26年次 5月度実践目標
2014.5.9