「人に与えることを喜びとする感性を磨き、実践し続けよう」
仏教では、思い通りにならないことを苦といい、さらに思い通りにしようとするとその苦が深まる、思いを捨てることで苦は滅する、と教えてくださいます。どうすれば、思いを捨てることができるのでしょうか?
会長先生は次のようにご指導くださっています。
・今、とてもおなかをすかせたあなたの目の前に、おにぎりがひとつある とします。ところが、まわりの人も同じように空腹です。みなさん、どうされるでしょうか。
人に譲(ゆず)る人。分け合おうとする人。あるいは、ひもじさから奪い合いを始める人がいるかもしれません。
伝教大師最澄は「己(おのれ)を忘れて他を利する」ことが慈悲を実践する極(きわ)みといわれていますから、仏教徒としてはおにぎりを『まず人さまに』と譲(ゆず)りたいところですが、私たちはなかなか欲から離れられない一面があります。
それでも私たち人間には本能的に、欲望を満たすこと以上の幸せや喜びを感受する能力が具わっているようです。
その感性がはたらくスイッチは何かといえば、人の喜ぶ顔や姿です。
人から一方的に何かをしてもらう喜びより、誰かに何かを与える喜びの方が大きく、自分の行為が人の幸福や喜びにつながるとき、それは生きがいにも通じるのです。
人に利益を与えるとき、そこにはほかのことではとうてい味わえない楽しみや喜びがあり、それはどんな賞賛や損得勘定も超えるということでしょう。
・もっとも、こちらがいくらその人のためにと思っていても、相手の気持ちや都合を無視しては独(ひと)り善(よ)がりになることもあり、場合によっては「余計なお世話」とばかり迷惑がられることさえあるかもしれません。
とはいえ、相手が思いを受けとってくださらなくても、「人に与えることを喜びとする心が自分にもあった」と発見できるのは大きな喜びです。まして人に譲(ゆず)ることができたら「欲をすてられた」と、気持ちがすっきりするのではないでしょうか。それを繰り返していくところには感動と喜びと、心の成長があります。
身で、心で、財物で、人に喜びを与えて得られる喜びや爽快感(そうかいかん)は、「またさらに思いやりの実践を」との気持ちを起こさしめることでしょう。そうして、いつでも思いやりを実践するなかに、生きる喜びを味わうことができるのです。
人が喜ぶのは、自分を認められた時、ほめられた時、と教えていただきます。今月も、ありのままを受け容れ、そのなかに「○」(マル)・「ありがたいこと」を見いだし、伝えていく、このご法を人さまにお与えしていきましょう。
まほろば 奈良教会長コラム
平成25年9月度 実践目標
2013.9.3