まほろば 奈良教会長コラム
平成三十年三月度実践目標
2018.3.1
地域のオアシスとなって
会員綱領の如く、法(一乗)の光を届けよう!
創立八十周年の月を迎えさせて頂きました。創立の意義を深く認識し、新たな決意で精進することをお誓いしたいと思います。
会長先生のテーマは「地域の人びとと共に、幸せに」です。次のようにご指導下さってます。
多くの方のおかげさまで、本会は今年、創立八十周年を迎えました。まだまだ浅い歴史ではありますが、そのなかで、いまから三十年前に、開祖さまは本誌でつぎのように述べています。「究極の目標は世界人類の救済にあろうとも、あくまでも身辺のことをおろそかにせず、まず目の前の一人を救い、おのれの家庭を調え、地域社会の浄土化へ進むという、着実な歩みも忘れてはならない」(昭和六十三年・三月号)
創立五十周年の年に示されたこの決意を、私は、節目の年を迎えて新たな一歩を踏みだそうとするいま、あらためてかみしめています。以前、私は「(地域の)みんなが幸せになることによって、私たち佼成会会員の幸せもある」と申しました。「地域社会の浄土化」とは、そこに住む一人ひとりが、自分の幸せだけでなく、地域の安寧やみんなの幸せという、いわば公のことに意識を向けながら、生活の一つ一つをおろそかにしないで明るい家庭を築いているということです。現実社会という娑婆も、こうして常寂光土となるのです。もし暗い表情をして沈んでいる人がいたら、その心に一灯を点じて笑顔をとり戻し、地域全体を明るく照らしていくのが信仰をもつ私たちの精進であり、役割だと思うのです。
夕暮れの街を数時間、高台から撮影した映像を見たことがあります。日が落ちるにつれて一軒、また一軒と灯りがともり、やがて街全体が夕闇の底に明るく浮かび上がってくるのですが、地域に幸せが広がるというのは、もしかすると、この光景のようなものかもしれません。窓から明るい灯がこぼれ、凍てつく夜も家のなかは笑顔とぬくもりにあふれている─
そういう、だれもが帰りたくなるようなあたたかな家庭が、一軒ずつふえていくイメージです。そして、その最初の一軒は、みなさんのご家庭です。家族がみんな仲よく、それぞれが敬いと親愛で結ばれて、心安らいでいる。“わが家”をそういう家庭にすることが、地域全体の幸せの始発点になるのです。
また本会には、各地域に教会道場があります。信者のみなさんにとってのオアシスであるばかりでなく、どなたにとっても身心が休まる場所であることが望まれます。ただ、それには私たちが率先して地域にはたらきかけることが大切です。「出入口」という言葉が示すように、まずこちらから一歩を踏みださなければ、入ってきてはいただけないのです。そのことを踏まえ、ぜひ地域のみなさんと一つになって、街全体をオアシスのようにしていただきたいと思います.。家庭の幸せを始発点として、地域のみんなが仲良く過ごすことは、大きな平和への一歩でもあるのです。
平成三十年二月度実践目標
2018.2.1
心を磨く「ご法の習学」で 真理の自覚を!
涅槃会の月を迎えました。お釈迦さまのみ跡を慕って、人さまに尽くす精進をお誓いしたいと思います。
今月の会長先生のテーマは、「人生を厳粛なものに」です。次のようにご指導下さってます。
「人生を厳粛なものに」というテーマですが、そもそも一人ひとりの一生は、「生まれる・老いる・病む・死ぬ」のどこをとってみても厳粛以外の何ものでもありません。意識していないだけで、私たちはみな厳粛な人生を歩んでいるのです。そうすると、そのことを明らかに知る、真理を自覚して生きることが、人生を厳粛なものにする鍵といえそうです。
ただ「厳粛」を辞書で引くと「おごそかで心が引き締まるさま」とあり、そうした気持ちを常にもちつづけるとなると、堅苦しくて「とてもそのようには生きられない」という気がしてしまいます。だからでしょうか、ある方はきわめてわかりやすく「厳粛とは、無常観に立って、いまを大切に生きること」といわれています。一日を、一時間を、そしていま目の前の一分一秒をおろそかにしないで、ていねいに暮らすことが大切なのです。
そのように捉えると心に余裕が生まれますから、気持ちもゆったりと落ち着いて穏やかになり、まわりの人とも仲よく、楽しくすごせます。そういう時間の積み重ねが、幸せで、かつ厳粛な人生といえるのでしょう。
たくさんのすぐれた仏教詩を残した教育者の東井義雄先生が、小学校の校長をされていたとき、ある教室に次のような言葉が掲げられていたそうです。
「ずいぶん 寒くなったが/いつまでも 寝床の中で/グズグズしていないで/心のスイッチをポンと押して/パッととび起きようではないか/ポンとスイッチを押すと/パッとあかりがともるように/朝起きも ポン・パで行こう」
(『東井義雄「いのち」の教え』佼成出版社刊)
いまはちょうど一年でいちばん寒い時期ですから、みなさんにも思い当たるふしがあるのではないかと思いますが、この「ポン・パ」は、いろいろなシーンで活用できそうです。それぞれが苦手とすることに当てはめてみてもいいですし、日常生活のなかで真理を自覚することについても、この「心のスイッチ」は役に立つように思います。「ありがとう」という感謝の言葉も、私たちが「いま・ここに存在する」という厳粛な事実から生まれた「有り難い」を語源とするものであり、真理をかみしめるための「心のスイッチ」にはうってつけといえるでしょう。こうした習慣が身につけば、ことさら意識しなくても、私たちの日常は自然に厳粛なものになっていきます。
入滅される前、釈尊は「すべては移ろいゆく。怠ることなく精進しなさい」といい残されました。涅槃会には、ご自身の死に際して、あらためて無常の法を説き、精進を促された釈尊のお心に思いを寄せてまいりたいと思います。
平成三十年一月度実践目標
2018.1.1
平成三十年一月度実践目標
日々、「本日ただいま誕生!」と
自灯明・法灯明の人生を歩む
新たな年を迎えさせていただきました。お互いさまに一年の目標立て、幸せと平和を祈り、精進をお誓いしたいと思います。
今月の会長先生のテーマは、「明るく、朗らかに」です。次のようにご指導下さっています。
元日の朝を「元旦」といいますが、ご承知のように地平線から太陽があらわれ出た姿をかたどった文字です。元朝の日の清清しい輝きを受けて、新年を迎えた私たちの身心はいきいきと発動し、一年が始まります。
さて、そうしてはじまる一年を、みなさんはどのように歩んでいきたいと願っているでしょうか。それぞれに思うところ、期するものがあると思いますが、だれにも共通するのは、一年をとおして明るく、朗らかにすごしたいという願いでしょう。
仏教では、自灯明と教えています。
自灯明は「自らを灯として生きる」ということですが、それは「何にも左右されない確固たる生き方の芯がある」ということです。そしてその「芯」となるのは、自分を含むすべての人が、かけがえのない命を、いま・ここに・自ら生きているという揺るぎない「信念」で、いま命あることへの「感謝」が、芯を明るく灯しつづけるのに必要な「油」といえるのではないでしょうか。
「足無し禅師」と呼ばれた禅僧がおられます。昭和二十年、二十五歳のときに朝鮮半島で敗戦を迎え、抑留先のシベリアで両足に凍傷を負って両膝から下を切断した方です。不自由な体で日本に帰るまでの艱難辛苦と、二十六歳で帰国してからの苦悩は、私たちの想像を絶するものだと思います。ところが二十七歳のとき、その方、小沢道雄師は「ひらめきに似た
心の光」を得たといいます。「そうか、人と比べるから苦しむのだ」~~そして師は、思いを定めるのです。
「比べる心のもとは二十七年前に生まれたということだ。二十七年前に生まれたことはやめにして、両足を切断したまま、きょう生まれたことにしよう。きょう生まれた者には一切がまっさらなのだ。本日ただいま誕生だ!」その日以来、「本日ただいま誕生」の言葉を胸に、
「いつもにこやかにしていよう」「ありがとうと、必ず感謝しよう」を心がけて、温顔の
仏道人生を歩まれたということです。
明るく、朗らかに生きるというとき、陽気な性格や環境に恵まれていても、いなくても、要は何を心の芯に据えるかが大事で、私たち仏教徒にとっては、それが仏法(ご法)であることを、この小沢師が明快に示してくださっているのではないでしょうか。
そしてこれが、法を灯として生きる~~法灯明でありましょう。
平成二十九年十二月度実践目標
2017.12.1
平成二十九年十二月度実践目標
本会の基本信行の実践で
自分中心から相手中心の心に転換を!
十二月を一年のスタートとする本会は、創立八十周年を迎えさせて頂きました。
成道会の月に、しっかりと菩薩道実践の喜び(悦び)を味わってまいりたいと思います。
今月の会長先生のテーマは、「『型』を身につける」です。次のようにご指導下さっています。
柔道や剣道などのスポーツ、また芸術や芸能の道で、手本となる体勢や動作のことを「型」といいます。ただ、そのような世界に限らず、私たちの日常生活における身近な所作にも「型」というものがある、と私は受けとめています。ちなみに「所作」とは、仏教で「身と言葉と心の三つのはたらきの現われ」をさします。つまり私たちは、行ないや言葉をとおしてなんらかの心を表現しているわけです。では、その心とは何か。どのような心を「型」として身につけることが大切なのか─結論を先にいえば、思いやりや慈しみの心にほかなりません。思いやりや慈しみを体現し、それを「型」として日々実践することによって、私たちは慈悲の心をさらに深く胸に刻みつけていくのです。「型」を身につけていれば、たとえ少々、心が乱れても、すぐに思いやりや慈しみの心に立ち返れます。その意味では「型」は「方便」ともいえますが、しかしそれは即、思いやりや慈しみという「真実」に直結するものです。
思いやりや慈悲の心が、日常生活での「型」の根底をなすとすると、その現われとしての所作・行ないに「これでなければならない」といった決まりはなさそうです。仏教に「一即多・多即一」という言葉がありますが、根底となる思いや願いを忘れないことが肝心なのです。その意味では、仮に個性の数だけ「型」があるとしても、自分勝手な「型」は、「型」とはいいません。むしろ、「自分の思いどおりにしたい」というわがままな心を抑えるために「型」があるといえるのです。
家族でも知りあいでも、何かのはずみで、顔も見たくない、口もききたくないというときがあると思います。その気持ちのまま朝、行き合ったならば、つっけんどんな態度をしてお互いに不愉快になります。ところが、合掌・礼拝や「おはよう」のあいさつを「型」として身につけていると、「顔も見たくない」という「我」が、その「型」によってとり払われて、自然に「無我」の状態になれます。そのあいさつが調和をとり戻す一歩となり、またあいさつをした人の心は、しないよりもずっと穏やかであるはずです。「型どおり」と聞くと、変化や工夫がないように思いますが、「型」に従って「そのようにしなさい」と、いわば問答無用で実践する機会は、自分の都合を大切にしがちな私たちが、無理なく「無我」になれる瞬間でもあるのです。
本会の法座や読経供養、あるいは「まず人さま」の実践も、それをつづければ仏さまのような慈しみ深い人になれるという「幸せの方程式」として、本会の歴史を支えてきた大切な「型」であると思います。
平成二十九年十一月度実践目標
2017.11.1
平成二十九年十一月度実践目標
いのちの根源にはたらく 絶対の力を信受し、
今できる、懺悔と感謝を伝える菩薩行を!
開祖さま生誕会の月です。開祖さまのご生誕をお祝いするとともに、開祖さまへの報恩感謝と誓願をお誓いしたいと思います。
今月の会長先生のテーマは、「親孝行と菩薩行」です。次のようにご指導下さっています。
両親を敬い、父母によく仕えることを「孝を行なう」と書いて「孝行」といいます。そして、「孝行のしたい時分に親はなし」のことわざが示すように、親孝行は両親が存命のうちに、と考えるのが一般的です。しかし、多くの人の場合、両親が元気なうちに孝を尽くすことが、なかなかできません。気恥ずかしさもあるでしょうし、心のどこかに「ずっと元気でいてくれるはず」という願いにも似た思いがあるからかもしれません。それで、亡くなって初めて親の恩の大きさを痛感し、生前の親不孝を悔やむ人が少なくないのです。
ただ、私は親孝行をするのに、けっして手遅れということはないと思うのです。暮らしの一つ一つに、ていねいにとりくむ。日々を明るく、楽しくすごす。人に喜ばれるようなことを誠実に行なうことです。娘や息子がこのように生きていれば、いまは亡き両親も、安心してくれるのではないでしょうか。お墓や仏壇・ご宝前へのお参りは、それ自体が親孝行です。その姿勢がすでに「自分の命の根源に感謝できる人間」に成長している証だからです。
開祖さまは、法華経に示された教えを身近な行ないにあてはめ、「親孝行」「先祖供養」「菩薩行」の三つが大事と説き示されました。では、その菩薩行とは何か。それは、布施・持戒・忍辱など仏さまの教えに随って、人を思いやり、周囲の人に喜ばれるような行ないのことです。見方を変えれば、人の喜びを自分の喜びにする人を菩薩といい、その菩薩の心を支える杖は、生かされていることへの感謝といえましょう。
そこで、先の親孝行のとらえ方をもう一度ふり返ってみましょう。日々をていねいにすごし、誠実に、人に喜ばれるような生き方をすること─この親孝行の具体像を菩薩行と重ねると、親孝行も先祖供養も菩薩行も、根本においては一つということがわかります。そして、これらすべてに共通するのは、いま命あることへの「感謝」です。「孝は百行の本」という言葉があります。「孝行はすべての善行の根本となる」という意味ですが、その孝行も生んでいただいた両親への感謝が基本ですから、命への感謝がすべての善行の土台となり、それが善なる世界を創造する力になると教える言葉なのかもしれません。
まもなく創立八十周年を迎える年に入ります。今月は本会で大事にしている「親孝行と菩薩行」についてお話ししました。このことをとおして自分の命の原点を見つめ直し、あらた
めて自身の信仰のあり方をふり返る機会になればと思います。そのうえで、一人でも多くの人に仏法をお伝えするという菩薩行の基本をかみしめ、生きる喜びを自他ともに味わわせていただきましょう。
平成29年10月度実践目標
2017.10.1
悩むときこそ 同じ悩みを持つ人の 声を聴く「手どりの妙」を!
開祖さま入寂会と日蓮聖人遠忌法要の月です。ご入寂された開祖さまを偲び、「追慕・讃歎・報恩感謝・継承・誓願」の意を新たにし、法華経の広宣流布をお誓いしたいと思います。
今月の会長先生のテーマは、「苦悩」と「苦労」です。次のようにご指導下さっています。
人はだれでも、できれば悩んだり苦しんだりしたくないと思っています。しかし、どんなに幸せそうに見える人でも、程度の差はあれ、悩みごとの一つや二つは抱えているのではないでしょうか。たくさん悩んで苦労を重ねたことが、のちのちその人の大きな心の財産になっているというケースをよく見聞きします。今月四日に入寂会を迎える開祖さまは、子の病という苦悩が宗教とのご縁となり、その後、人生を大きく変える法華経との出会いがあったわけです。そう考えると、「悩むからこそ、いろいろな教えを求め、どう生きることが大切なのかを真剣に考える」といえそうです。誤解を恐れずにいえば、悩めばこそ向上があり、悩むことは人間にとって大事な経験だと思うのです。
水が冷たいか暖かいかは、それを自ら味わってみればわかる、という意味の禅語「冷暖自知」が示すように、苦しみや悩みは貴重な経験として「ありがたいもの」だということも、いろいろな体験をして初めて「ああ、ほんとうにそうだな」「苦があればこその楽なのだ」と受けとれるようになると思うのです。
釈尊は、「一切皆苦」~この世のものごとはすべて苦であると教えてくださっています。
そして開祖さまは、「この真実をしっかりと見つめ直し、それを腹の底に据え直すことが、何よりも大切」で、「そうすれば、苦境というものは、なにも特別なものではなく、人生にとって、ごく当たり前のことだということがわかってくる」「苦境を特別な状態だと考えるからこそ、苦しく感じたり、それを予測して不安におびえたりする」と喝破しています。
しかし、どうにもならないことだとわかっていても、それをなんとかしたいと悩み苦しみ、悶々とした日々を送ることの少なくない私たちです。天台宗の酒井雄哉大阿闍梨は、そういうときには「頭でずーっと考え事をしているよりも、『体』を使いながら、ひたすらなにかをやってみるほうがいい」といいます。
同じ苦しい状態でも、漢字で「苦悩」と書くときの「悩」は「心を乱す、思いわずらう」という意味で、これは頭のなかで問題が「停滞」し、堂々めぐりしている感じがします。一方、「苦労する」というときの「労」は、「つとめや仕事の疲れや骨折り」をさし、そこには問題を一歩前に進める「動き」があります。それは、先の「冷暖自知」に通じる得難い経験にもなるのではないでしょうか。本会で、「悩んでいるときには、同じような悩みをもつ人の声を聴かせていただこう」というのも、人さまのために労をいとわず動くことが、「苦悩」を「苦労」に変える秘訣だからでしょう。感謝もまた、そこから生まれます。釈尊は、すべての人を救いたいと決意され、布教伝道に邁進された「大いなる苦労人」といえるのです。
平成29年9月度実践目標
2017.9.1
尋ねる・伺う実践を通し
「縁」から学んで転換できる 智慧の悦び!
九月十日は脇祖さま報恩会です。長沼妙佼脇祖のご遺徳を偲び、慈悲行の実践に努力したいと思います。今月の会長先生のテーマは、人に「伝える」ということです。
次のようにご指導下さっています。
仏さまの教えを学び、生活のなかで実践していく~~それは、さまざまなことが起こる人生において、たとえ悩んだり、悲しい思いをしたりしても、直面した苦悩を受けとめて乗り越えていく「智慧」を身につけることになります。さらに、学んだ教えを人さまにお伝えすることは、よりよく生きていくうえでの「智慧」や「慈悲」を体得する大事な実践であります。法を伝えること、つまり布教伝道は、「一人でも多くの人に真理を知ってもらい、幸せになってもらいたい」と願う法の布施であると同時に、法を伝えることをとおして、自分の心田を耕していく精進にほかならないのです。
私たちは、自分がよくわからないことを人に伝えることはできません。また、人にものを伝えるには、それなりの理解が必要です。ところが、私たちの知識や経験の量はほんのわずかです。そうすると、人に何か伝えようとするときに大事になるのは、「自分は何も知らない」という謙虚な姿勢ではないでしょうか。私たちが読経供養の際に唱える「三帰依文」に、「自ら法に帰依し奉る〳当に願わくは衆生と共に〳深く経蔵に入って智慧海の如くならん」という一節があります。何も知らない私たちは、ですからいつも「智慧海の如くならん」と願い、誓っているわけですが、つねにその場にふさわしい仏さまの智慧をいただくには、「衆生と共に〳深く経蔵に入って」~~つまり、相手とのご縁を大切にして、いつ、だれに対しても「学ぶ」姿勢を忘れないことを、この一節から教えられます。「教えよう教えようとすればするほど智慧の泉は涸れ、学ぼう学ぼうとすると、智慧の泉はこんこんと湧いてくる」
と聞いたことがあります。伝える内容が何にせよ、教えよう、伝えようという気持ちよりも、相手の声にひたすら耳を傾け、学ぼうとする姿勢のなかから、相手によく理解してもらえる言葉や心くばり、すなわち自他をよりよく生かす智慧が湧いてくるのだと思います。
ところで最近、ある高校生の体験説法にふれる機会があったのですが、自分の感動を率直に述べたそのさわやかな語り口からも「伝える」ということの大事なポイントを学ばせてもらいました。ひとことでいえば、「ありがたい、うれしい、楽しいと感じた純粋な気持ちを、素直に伝えることほど人の心に響くものはない」ということです。それを私たちの日常に当てはめてみると、「ありがたいことをたくさん見つけ、人さまに伝えていく」ということになるでしょうか。そこには、つねに感謝を忘れない心の姿勢があり、日々の幸せと喜びがあります。そして、いつも明るいその姿は、「こういう人になりたい」と、まわりの人を感化
せずにはおかない魅力があります。それは、そのままで布教伝道といえます。
平成29年8月度実践目標
2017.8.1
いのちが遣わした 本仏のはたらきを 法座で実感しよう!
夏休みも後半に入りました。六日の戦争犠牲者・平和祈願式典を通し、世界の戦争犠牲者に対し、慰霊供養を行なうと同時に、平和を築く行動をお誓いしたいと思います。今月の会長先生のテーマは、「見えないはたらきに気づく」です。次のようにご指導下さっています。
「空気・心・ご縁」。この三つに共通することがらが何か、みなさんはおわかりになるでしょうか。一見、なんのつながりもなさそうですが、これらには次のような共通点があります。
「実際に触れることも見ることもできないものでありながら、私たちが生きるうえで欠かせない大切なもの」これが答えです。ふだんはあまり気に留めることがないにもかかわらず、その存在の大切さに気づけば、感謝せずにはいられなくなるものともいえるでしょう。心や
ご縁を具体的に考えてみても、たとえば親の恩やご先祖の徳、家族の思いやりや友人の気遣いなども、つい感謝を忘れてしまいがちな「目には見えない大切なもの」といえます。
スイスの画家パウル・クレーは、「芸術は目に見えないものを見えるようにする」といっていますが、宗教や信仰もまた「目に見えないものを見えるようにする」ものです。正確にいえば、目には見えない心のありようや「いのち」の不思議・有り難さ、そして生命の尊さなど、人として生きるうえでほんとうに大事なことに気づかせてくれるきっかけを、宗教や信仰は与えてくれるのです。
法華経の如来寿量品に「常に此に住して法を説く」という一節があります。仏さまはいつも、私たちのすぐそばで法を説きつづけてくださっているということです。ところが、そのあとすぐに「我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」とつづきます。すなわち、私たちにはそれが見えない、聞こえない、わからないというのです。なぜかというと、「顛倒の衆生だから」と経文にあります。ものごとを誤って受けとったり、自分本位のかたよった見方をしたりするからだというのです。
それでは、私たちはどうすれば仏さまからのメッセージに気づけるのでしょうか。いちばん簡単な方法は、素直になることです。素直になれば、目に見えない大切なものも、仏さまの説法も手にとるように感じられ、まざまざと見えてくるはずです。客観的に見れば苦境にあることに変わりはなくても、目に見えない大切なことに気づいたとき、多くの人が胸のつかえのとれたような安心感に満たされるのです。それは、救いだと思います。目に見えないもののはたらきや仏さまの声に気づくというのは、いうなれば幸せになる早道です。
お盆や夏休みでおおぜいの人が集まることの多いこの季節は、みんなで「目にみえない大切なもの」に思いを馳せるいい機会といえるかもしれません。
平成29年7月度実践目標
2017.7.1
相手の幸せを願う「手どり」こそ 最高の菩薩行と自覚して!
盂蘭盆会の月を迎え、今月の会長先生のテーマは、「相手を認め、讃える」です。
次のようにご指導下さっています。
人のすぐれているところをほめることを、一般に「讃える」といいます。
では、その「すぐれているところ」とは、何を基準にしてそういえるものなのでしょうか。
ふつう私たちは、成績がいいとか、仕事が早いとか、性格がいいとか、運動に長けているといった長所を指して「すぐれている」といい、その人を認め、讃えます。
ところが釈尊は、自分の生命を奪おうとした提婆達多を「善知識」と讃え、殺人鬼と恐れられたアングリマーラの再生を信じ認めて、弟子の一人に加えたといわれます。世間の常識とは異なる見方かもしれませんが、ここには、人を認め、讃えるときの大切な着眼点が示されています。一般でいう「賛嘆」は「深く感心してほめること」を意味します。いっぽう仏教でいう「讃歎」は、「仏・菩薩の徳をほめ讃えること」と教えています。そのことに照らせば、釈尊がどれほど罪深い人に対しても讃えることを忘れなかったのは、相手に仏・菩薩の徳の輝きを見ていたからにほかなりません。
人を評価し判断するうえで、その人の行動や言葉や性格は無視できないものです。しかし、そのことにとらわれると、もともと讃えるに値する仏性という大切な視点を忘れてしまいがちなのです。仏法を学ぶ私たちにとって、人を認め、讃えるとは、相手の「いのち」を讃歎することではないでしょうか。
ただ実際は、なかなかそこまでは気づけません。それでも、たとえば親が子を見るとき、上司が部下を評価するとき、あるいは友だちとふれあうときに、相手のすぐれたところ見る心がけとともに、私たちはお互いさま、本来、仏・菩薩の徳を本具する「いのち」であるということを忘れてはならないと思います。
相手をほめるというのは、自分の心を開くことです。人を認めて讃えることも、じつは人のためではなく、自分を磨く実践の一つといえるかもしれません。
昭和四十年のことだったでしょうか。私が当時、さまざまな葛藤を抱えたまま、初めて断食に臨んだときのことです。断食道場で八日間の断食と漸減・漸増食の期間を終え、帰宅してお風呂に入っていたところ、突然、父・開祖さまがお風呂に入ってきたのです。さらに「背中を流してやろう」といって、体重が落ちた息子の背中を流しながら、「背中にツヤが出てきたな」と、ほめ言葉ともいえないようなひと声をかけてくれました。
ごくありふれた、親子の裸のつきあいだったのですが、私ども親子にとって、めったにないできごとでした。その経験から、相手を認め、讃えることについて、何が大切なのかが少しわかる気がします。けっしてノウハウや上手な言葉ではなく、自他のいのちの尊重と、相手の成長を心から願う気持ちに尽きるように思うのです。
平成29年6月度実践目標
2017.6.1
知る・わかる・できるの実践で
ピンチをチャンスに転換する智慧に!
今年度も、後半の月を迎えました。後半も「有り難し」と、心に法の種を蒔いて感謝の真因に気づく布教伝道に邁進したいと思います会長先生のテーマは、「愚痴をいわない」です。次のようにご指導下さってます。
不都合なことに遭うと、私たちは不平不満を口にしがちです。俗にいう「愚痴をこぼす」わけですが、この「愚痴」という熟語の二文字は、どちらも「おろか」を意味します。また、
愚痴には「いっても仕方がないことをいって嘆くこと」という意味があります。確かに私たちは、いってもムダと知りつつも不平不満をいい、ときには思いどおりにならないことを人のせいにしてまで愚痴をこぼすのです。
私たちがなぜ、そこからなかなか抜けだせないのかといえば、自分の知っていること、思っていること、考えていることが「絶対に間違いない」という錯覚にとらわれているからです。まさに、「私は知っている」という病気にかかっているのです。
「私が正しい」「私は知っている」という気持ちが愚痴の原因の一つだとすれば、その心を省みることにより、不満や文句が少なくなりそうです。そして、反省することよってものごとに対する洞察が深まると、不平や不満の対象としか思えなかったことが、「仏の説法」と受けとれるのではないでしょうか。日ごろから仏の教えに親しんでいると、愚痴をこぼしそうなときでも智慧の心がそれを鎮めてくれる。と経文にあります。「愚痴多き者には智慧の心を起こさしめ」という一節ですが、愚痴の対象が「自分に大切なことを教える仏の説法だった」と思えたとき、そこには智慧の心がはたらいているといえそうです。
そういう心のはたらきを、よりしっかりと自分のものにする方法があります。それは、この世に共通する真理、つまり「真実の道理」を知ることです。この世のあらゆるものが、一つにつながるご縁によって生かされているという事実。その恩恵を受けて、いま自分がここに存在するという有り難さ。このことが明らかになり、感謝できると、愚痴は出てこないのではないでしょうか。ひとことでいえば、天地自然の道理がわかれば愚痴はいえなくなるということです。
経文には「若し愚痴多からんに、常に念じて観世音菩薩を恭敬せば、便ち痴を離るることを得ん」ともあります。観音さまを念じ、敬う心をもちつづけると、愚痴を離れることができるというのです。それでも愚痴をこぼしそうになったら、「智慧がはたらくチャンスだ」と気持ちを明るく切り替え、あるいは日々の読経供養をとおして心を見つめなおして、真理にそったものの見方・受けとめ方に立ちもどればいいのです。