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まほろば 奈良教会長コラム

令和二年九月度 ご法話を学んで

2020.9.1

皆さま、日々ありがとうございます。
未だ残暑きびしく体調管理も難しい
この頃ですが、時期としては一雨ごとに
秋らしくなり年度の終盤に
差し掛かってまいりました。

しかしながら、コロナ禍の状況は変わらず
行政もさまざまな試みを打ち出して
下さっていますが、現状を大きく
好転させるまでに至っていないことは
皆さんの周知されているところと存じます。

その中でも奈良教会におきまして、
コロナ感染対策の啓発、注意喚起を期待して
オリジナルポスターを作成させて頂きました。

近日中には、皆さまのお手元に
お届けできることと思います。

それでは、今月も9月号佼成から会長先生の
ご法話を学ばせて頂きたいと存じます。

さて、今月は『ともに悲しむ』
と題してご法話を頂戴しました。

前項の、『人の悲しみを悲しむ心情』にて、
「ともに」という和合亮一さんの誌を引用され、
《つらい経験をして悲嘆にくれる人に
出会ったとき、私たちはこの詩のように、
相手を思い、ときにはともに
涙したり、手をとって
「いつでもそばにいますよ」
と励ましたりします。》

これは、人の苦しみに共感して
ともに悲しむことができるという人間に
具わっている心情だと示して下さいました。

更にその共感力といえるようなものは、
人生において代表的な四苦(生老病死)などに
出会ったときに感じるつらく悲しい気持ちを
沢山味わった人ほどより発揮されると
お教えくださいました。

きっとほとんどの方々にあてはまること
でしょうし、私自身に当てはめてみても
どちらかといえばつらく悲しいことの方が
多く感じているように思います。

教えに出会っていなかった時には
気づきもしなかったでしょうが、
このつらく悲しみの体験がそのまま
傷となって残るというより、
人の苦しみや悲しみがよくわかり、
身につまされるものになること
なのだとお示し下さいました。

この心もちは、人の力になることができる
自身の存在を意味あるものとして捉え、
つらく悲しい渦中にあっても希望の灯に
なるものと受け止めました。

数学者 岡潔さん
(奈良女子大の教授もされていたようです。)
の言葉にある「宗教の本質」とおっしゃた、
人の悲しみ、自分の悲しみをわかり感じる
ことを、法華経の如来寿量品の掉尾の一節、

「何を以てか衆生をして 無上道に入り
速かに仏身を成就することを得せしめんと」

(どうしたら人びとが迷うことなく、
仏になってもらうことができるかと、
それを常に念じている
/菩提の芽を発さしむP26より抜粋)

という仏さまの心もちを、私たちも教えに
よって持たせて頂けることを示して
いただけたのではないでしょうか。

後項では『自他の仏性が輝くように』において、
暦のうえでの「白露」の露にはかない
印象ありますが、同じくはかなく
思える無常の世といえども

「悲しみにくれる人がいないように」
「だれもが仏性に目ざめて救われるように」

という仏さまの切なる願いを
お伝えくださっており、
私たちが目指す菩薩という人に寄り添う
生き方の示唆を頂戴しているのでしょう。

自分の愚かさを嘆き、泣き沈むチューラパンタカ
というお弟子とお釈迦さまの寄り添い方を
手本としてみたいものです。

ここで私の勝手な推察ですが、
「塵を払わん、垢を払わん」
と唱えながら掃除をすることを
お勧め下さったわけですが、
言葉を発することによる心の整えと
善行という行動の一致によって定まって
きたのではないかと感じております。

とはいえ、仏さまがチューラパンタカに対して、
心を救い、悲しみや絶望感を喜びに転じさせた
要因は、ひたすらに仏性を信じて寄り添う、
釈尊の大慈大悲から生まれる
やさしさにほかならないでしょう。

とありますが、このことについて、
善も悪も持ちあわせる私たちの、
だれにも共通するのは、
仏性という揺るぎない本質、仏と同じ
「永遠のいのち」
を生きている私たち、善も悪も体験した私たち
だからこそ、自他の仏性が輝くようなふれあい、
とりわけ悲しむ人に喜びを与える縁となる
実践ができると、信じてくださいってるのでは
ないかと思うと先のご法話によって
灯った希望の灯が勢いよく明るさをもつものと
なるように受けとめさせて頂きました。

振り返れば、私たちそれぞれに、
チューラパンタカに寄り添って下さった
ようにして下さった方がいたおかげさまで、
日々感謝のこころをもって過ごすことが
できていることを改めて感じるのですから、
今度は私たちが、つらく悲しんでいる方へ
寄り添い、やさしさの発揮をすることができれば、
きっとコロナ禍にあろうとも
希望の灯になれるのではないでしょうか。

折角ですから、皆さんが
チューラパンタカと仮定して、
お釈迦さまに当たる方は、どなたですか?
その方はどのような方ですか?

どののような寄り添い方を
してくださいましたか?

最後に、今月は脇祖さま報恩会、秋季彼岸会、
敬老会などこれまで頂いたご縁、
救いの手を差し伸べてくださった方々や、
日々お支え下さっている周りの方々、
同じ時代を共に生きている世界の方々など、
感謝の誠を捧げる機会が多くある月でもあります。

周りを取り巻くことで言えば、
この状況下にも感謝させていただくことも
多く有ることと拝察します。

唯々、不安や恐れに慄くのではなく
創造や工夫を繰り返し、更なる成長の
糧とでもなるよう皆さんと共に
修行精進させて頂きたいものです。

重ねになりますが、お互いの距離に注意して、
マスク使用や消毒と手洗いの徹底、
定期的な換気など対策をしっかり行うことで
リスクは減るのですから、私たちから
徹底して周りの方々にも注意喚起して安心した
精進につながるようにしてまいりましょう。

また、今月も元気に皆さまと共に
努力精進させて頂きたいと存じます。

皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

合 掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

 

★佼成9月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成9月号】

(朗読 MP3)

令和二年八月度 ご法話を学んで

2020.8.1

皆さま、日々ありがとうございます。

はじめに、令和二年七月豪雨における
犠牲になられた方々のご冥福、並びに
被害に遭われた方々の早期の復興に
むけてご祈念申し上げます。

また、酷暑のころをむかえましたが、
新型コロナウイルスの状況は
一時期の収束感から一変し、
日々感染者数の更新が彼方此方で
発表されていることは皆さんご周知の通りです。

しかし、奈良教会としては、
皆さんのご協力のもと、
再開にむけて精進しつつ、
状況に柔軟に対応するべく、
教会役員の皆さんや担当の方々と
検討を重ねながら徐々にではありますが、
会員各位が安心のできるご修行環境を
目指して教会護持をさせて頂いております。

その中でも、皆さまがそれぞれの場で
工夫に工夫を重ねご法精進のご縁を結んで
下さっていることに深く感謝申し上げます。

ひとえに、開祖さま、会長先生のお徳と
先達の方々の導きによるところと存じます。

再開如何の進退も今後の我々一人ひとりの
行動によるところでありますので、
今月も会長先生のお心をしっかり
受け止めさせていただきたいと存じます。

さて、今月は『むだなものはない』
と題してご法話を頂戴しました。

前項の、『「仏に帰る」ための精進』にて、
《ある方から「仏になるためには、
どんな実践や工夫をすればいいのでしょうか」
と尋ねられたこと》
を発端に法華経の「如来寿量品」
を良く味わうと仏になるために
精進するわけではないようです。

というお話をお示し下さいました。

このお話を伺って、すべての努力精進は、
仏になるための修行というところばかりが、
色濃く私自身の目に映っていることに
気がつかせて頂きました。

ドキッとした思いもありながら、
大切なことを忘れていたことに
お詫びのこころでもありました。

仏になるために修行や工夫をするというよりも、
悟ったあとの精進をしている。

それでは、なぜ精進を続けているかといえば、
私たちがときどき自分の本質を
忘れてしまうからです。

と受け止め方もお教えくださいました。

そのことを踏まえ、もう一度自身を、
振り返ってみますと、
人間釈尊の説かれた教えである。

法華経前半部分の迹門での心もちのままで、
そこから脱却できていない自身の
到らなさに気づかせて頂いたのです。

すでに救われている命という本質の救いを
日ごろ教えて頂いていながらも、
どこかで見失っていることに気づかず
日々を過ごしていることが
往々にしてあることから、
ときどき自分の本質を忘れてしまう私に
思い出させるために様々な
出会いや出来事によって
「ほんとうの自分」に帰るための精進と
お教えくださったものと存じます。

更に、それこそが日常の信仰生活なのです。

と仰っていただいたことに、そうあっても
日ごろ苦しみや悩みの中に没入気味の
私たちの残念さを感じるところでもありました。

後項では『自分のことのように』において、
度脱(世の人々を迷いから救い出して
悟りの世界に入らせること)、

《迷いの世界から救うというと
難しい印象ですが、いつでも心から、
幸せだ、うれしい、楽しいと
いえる人間になるということです。

そのために、仏はさまざまなかたちで、
あるいはものごとをとおして、
私たちが迷いの世界から離れる
ヒントを与えてくれています。》

聖人や賢人の教えだけでなく、
いいことも悪いことも含めた
この世のあらゆるできごとが、
「ほんとうの自分」に帰って
幸せを味わうためのヒント、
縁になるということです。

これを万億(まんのく)の方便というのですが、
ここのところでは私たちに仏さまが
幸せに過ごしてほしいと願って下さっている
お心を感じずにはいられません。

私たちは、自身の身に
起こったことがらによって、
人の痛みが身にしみるように
理解できることもあれば、
他者の幸福のさまを目の当たりにすることで、
感動に震えることは、

《それは自分の仏性が現われているからでしょう。》

と自他一体の根本は、仏さまと
同じ尊い命を宿している私たち自身を
認めることにもなるのではないでしょうか。

最後に、もう一度周囲を見回してみると、
コロナ感染のリスクが高まっています。

豪雨災害による被害は全国どこでも
起こる可能性があります。

だれもが大小様々な苦労をなさっています。

このことを、
《私たちが、自分のこととして受けとめ、
学べば、この世にむだなものごとは何一つなく、
その一つ一つが「ほんとうの自分」、
すなわち仏に帰る縁となるのです。》

とお示し下さったことが
自他一体の心もちであり、
いつでも胸の奥にもって
精進して参りたいと存じます。

ここに到って、奈良教会の皆さんが
ご縁を学びとする精進のご様子の報告を、
更に多く聞かせて頂いております。

改めて工夫を繰り返しより良いご縁に
なろうと努力して下さっていることに
重ねて感謝申し上げます。

また、今月も元気に皆様と共
に努力精進させて頂きたいと存じます。

皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

合 掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

 

★佼成8月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成8月号】

(朗読 MP3)

令和二年七月度 ご法話を学んで

2020.6.29

皆さま、日々ありがとうございます。
新型コロナウイルスの
緊急事態宣言解除からの
自粛要請も全国的に解除され、
移動制限も解除され県をまたいだ
移動も可能となり
観光地への国内移動の様子などの映像を
目にすることが多くなってまいりました。

それも、感染リスクを前提とした、
《新しい生活様式》の確立を
余儀なくされている中ですが、
奈良教会の会員各位におかれましては、
より良いご自身、より良いご家庭、
並びにより良い世界を目指して
努力精進して下さっていること
改めて感謝申し上げます。

現在、奈良教会では布教活動再開に向けて
五段階の目安をもって第二段階での
対応とさせて頂いております。

更に、七月一日を機に第三段階へ移行し
徐々に布教活動再開に向けて
進んでいく予定です。

ここに到るにあたっては
教会幹部並びに会員の皆様の
ご協力ご精進のおかげ様でありますが、
再開如何の進退も今後の
我々一人ひとりの行動に
よるところであることはご理解の通りです。

今月も会長先生のお心をしっかり
受け止めさせていただきたいと存じます。

さて、今月は『いま、自分にできることを』
と題してご法話を頂戴しました。

前項の、『菩薩として何を願い、誓うか』
では盂蘭盆会(うらぼんえ)の月である
七月にご家族がお集まりになり、
そろってお参りをすることは、
現状では難しいわけですが、
【仏心:一切衆生を救うの心】
私たち会員にとってこの、
仏心の発揮の機会を頂戴したものとも
受け止めることが
できるのではないでしょうか。

会長先生は
「いま世界中に広がっている病気によって
苦しむ人たちに心を寄せ、事態が早く
終息に向かうことを願うばかりです。

一人ひとりが、自分にできることは何かを考え、
それを日々、粛々と
実践していきたいと思います。」
とお示しいただきました。

そこで引き出して下さいました
《従地涌出品の一節に登場する
「地涌(じゆ)の菩薩」》
実践をとおして「すべての人を救おう」
という無数の菩薩たちの願いと誓いによる実践を
私たちに投げ掛けて下さっていることを踏まえ、
地涌の菩薩の代表である
四人の菩薩の願いと誓いである
《四弘誓願(しぐせいがん)》
を私たちの生活に実践できるように
禅宗の松原泰道師の表現をもって、
お教え下さいました。

①衆生無辺誓願度
・・・身近な人に奉仕(布施)をしよう。
②煩悩無数誓願断
・・・足もとのごみを一つ拾おう。
➂法門無尽誓願学
・・・一日に一つ、教えを学ぼう。
➃仏道無上誓願成
・・・永遠の路を一歩一歩ゆっくり歩もう。

以上の四つの誓願から、私たちの一人ひとりに対して、
誓願をもった日々の大切さを
改めて問うて下さったように存じます。

私の身に近いところから始めようという優しさと、
合わせて必ず実践するという決意を持つ
厳しさを自身に課して参りたいものです。

後項では『いまが「習学」のチャンス』において、
先にありました《四弘誓願を参考に、
自分にいま何ができるかを考える人は、
いうまでもなく仏の教えを信じ、
実践する志のある人であり、
それは仏と同じ心になっているということ》では、
「仏さまのようになりたい」
という気持ちを起こしたとき、
すでに仏の心と一つになっていると
お教え下さいました。

それを「一体不二」「凡聖不二」
という言葉と共に、そもそも私たちに
教えの尊さがわかる理由は、
「すべての人を救いたい」
という尊い願いがあるから、また、
人間として命をいただいたことは、
仏と同じものを具えているということ:
それを信じることが信仰であり、
信心であるとご指導いただきました。

日ごろ、私たちは信心を高めることを
第一義として修行精進させて頂いておりますが、
どうにかすると、だれかが何をした。

何がどうなった。など事柄に振り回され、
自身を見つめることは、
後回しにしていることが多くあり、
場合によっては、
自身の高まりを気にすることもなく、
人を変えることばかりが
目的になっていることがあります。

それについて、会長先生より「いままさに、
自分の信仰のありようを振り返り、
日々の実践という「習学」の
繰り返しをとおして、
菩薩の自覚を高める
いい機会なのかもしれません。」

とのお心を学び、周りを見回してみますと、
自粛というどちらかと言えばマイナスのように
聞こえる状況でも、コロナ禍前の雑多な日々に
流されがちな時間ではなく、
仏さまと私という心安らかでゆっくりとした
貴重な時間であることに気がつきました。

そのように感じると、自粛によって
しばらくお目にかかれていない方々との
再会が楽しみとなります。

皆さまが、この期間に
どのような努力精進をされたのか。

また、どのような喜びや悲しみを
感じられていたのか。

更には、仏さまの智慧と慈悲を感じるような
貴重な体験をされたのか。

というたくさんのお宝に出会えることが
布教活動再開後に待っていると思うと
心待ちでなりません。

最後に、「またお目にかかりたい」と
思わせられる方とは、
「神仏などを尊び敬う心が強く、
一方では苦しみや悲しみの底に沈む人を
常に思いやる、情愛あふれるという点」
をお示し下さいました。

それを私は、何事も謙虚に受けとめ、
頭に浮かんだ方にこちらから
お声がけしてみようと、
受け止めさせて頂きました。

その実践を繰り返すことから、
いつもこのような自分であるか?

また、なろうと努力しているか?
を再度、自身に問いかけつつ
精進して参りたいものです。

ご法話を学ばせていただき、
この先すべてにおいて
コロナ禍前の状態に戻るということは、
時を巻き戻すことが出来ないのと同様に
難しいことは皆さまもご理解の事と存じます。

しかし、コロナ禍の体験も、
法華経に教えられている柔軟さと創造性の
発揮を求められているものと考えますと、
会員の皆様がこれまでに積み上げられた
教えの発揮のチャンスであると
受けとめることができます。

改めて因習にとらわれず変化に
対応していく意識をもって、
新たな自分づくりを元気に皆様と共に
努力精進させて頂きたいと存じます。

皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

合 掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

 

★佼成7月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成7月号】

(朗読 MP3)

令和二年六月度 ご法話を学んで

2020.5.31

令和二年六月度 ご法話を学んで

皆さま、日々ありがとうございます。

新型コロナウイルスの緊急事態宣言が
奈良県は5月15日より解除され、
続いて大阪府、京都府、兵庫県の2府1県も
解除され、近畿全体の解除となりました。

しかし、一部の自粛は継続されており、
感染の不安は払拭されていないことは
周知のとおりです。

奈良県の(5/15付)感染者を
分析した発表によると、
今後注意する参考にもなるかと
思いますので引用させて頂きますが

【①感染経路は大阪関連のものが多い
②家族感染が多い
➂会食や集会での感染が全体の1割程度
④外国での感染、外国からの訪問者から
感染したものが全感染の1割程度】
でした。

以上の4点について特に注意し引き続き、
3密(「密閉」「密集」「密接」)状態を作らず、
不要不急の移動を避けること、
感染の拡大防止を自身の生活に取り入れて
いくことが、すべての命を守る行動指針として、
我々一人ひとりに求められていることからも、
会長先生のお心をしっかり受け止めさせて
いただきたいと存じます。

さて、今月は『怠け心に負けない』
と題してご法話を頂戴しました。

前項の、『精進が大事と知りながら』では
昔の流行歌《わかっちゃいるけど、やめられねぇ》
の1節を私たちの心のはたらきをみごとに
あらわしたものとしてお示しくださいました。

先日来の自粛の日々の中でも、
ある店舗について開店しているから来てしまう
というインタビューの様子がニュースに
ほぼ毎日取り上げられていたところは
皆さんも目にされたことでしょう。

当然賛否はあるのですが、
ニュースに取り上げられている方だけに
視点は行きがちですが、私たちにも大なり小なり
《わかっちゃいるけど、やめられねぇ》
と諦めかけていることがあるように感じます。

仏教では「常精進(じょうしょうじん)」
が大事と教えているわけですが、
常に学び、身を修める努力を続ける
大切さとして説かれていることは、
多くの方に理解されているものです。

しかし、前述のように、やろうと
決めたことでも怠ったり、しないと決めた
ことでもついしてしまったりと
反省することがあるわけです。

そこで、法華経の「安楽行品」の1節を引いて
誰もが抱く、サボりたいとか飽きたという
気持ちを釈尊もよく理解されていたとして

「心の内から湧いてくるさまざまな誘惑や
迷いをふり払い、安らかな心で、みずから
ねがって、喜びのうちに精進できるように」

と私たちに説いてくださっていることを
お示しくださいました。

後項では『待っている人がいる』で、
孔子の言葉を引用くださり、子どもが大人を見て
「あのようになりたい」と思い、
その真似を繰り返すように、
目標をもって学び習うときは、
楽しくて仕方がなくなる様を、信仰の世界も同じく、
日々の目標や信仰の目的が自覚できれば、
あとはその思い(心)を貫くための
精進を繰り返す(習う)だけで、
それが習慣となって身につくことが
喜びとなり更に増すこと

「自分がなぜ信仰をしているのか、
なんのために日々精進するのか、
という目標や目的をつかむことが、喜びの
うちに精進する基本となるでしょう。」
とお教え下さいました。

努力や精進という言葉を伺うと思いだすのが、
皆さんもよく耳にされた
(ウサギとカメ)のお話しです。

諸説ありますが、ウサギとカメそれぞれの視点を
油断と努力として比較されることがあります。

うさぎはかめを見て競争しており、
カメはゴールを見て競争していたので、
結果はご存知の通り、カメが勝ったのだという
教訓のお話しです。

しかし、今月の会長先生のお心を学んで、
カメとして諦めずに少しでも前進しようする心と、
ウサギのように自力を過信し少しならと
休む怠け心も、どちらも私の中に存在する心を
気がつかせていただきました。

目標、目的をもった常精進できることの素晴らしさと、
やらねばならないという無理は禁物というご指導は、
どちらか一方だけが良いということではなく、
なんのために行うのかという信仰の根本を
お教え下さったのだと思います。

それを、『人を思う気持ちが盛んなときは、
飽きたり怠けたりする心が生まれないというのです。

どれほど疲れていても、わが子のために労を惜しまない
母親の姿が思い起こされますが、それはつまり、

「自分を待っていてくれる人がいる」と思うとき、
人は自己中心の思いから離れ、
その人の役に立ちたいという願いが湧いてきて、
精進の一つ一つが喜びに変わるということでしょう。』

お示し下さいました。よく先輩から、
(私でなければ救えない人が私を待ってくれている。)
と布教に歩く心構えをいただきました。

歩けば必ず私を必要としてくださる方とのご縁が有り、
些少でもお役に立てた実感が
私を育てて下さっていると思います。

だれかに指示されたわけでもなく、
強制されたことでもないわけです。

私の中から湧き起った
人の役に立てることの幸せをかみしめて、
「あなたを待っている人はいませんか。」
と投げ掛けていただいたことにお答えができるよう
皆さまとともに精進させていただきたいと存じます。

最後に、5月の青年の日は、
このコロナ禍にありながらも、
どのようにご縁を結ぶかという課題に
取り組んだ月でもありました。

青年のみならず教会幹部をはじめ会員の
皆さまの即是道場の修行を学ばせて頂き、
直接会うことを控える中でも工夫次第では
様々なご縁を結ぶことができる確信を得ました。

重ねになりますが、
~私を待ってくれている人との出会い~
を自らねがって、元気に努力
精進させて頂きたいと存じます。

皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

合 掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

 

★佼成6月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成6月号】

(朗読 MP3)

令和二年五月度 ご法話を学んで

2020.5.1

皆さま、日々ありがとうございます。
新型コロナウイルスの対応にそれぞれの
置かれた場所でご努力、ご精進
いただいていること感謝申し上げます。

4月16日に全都道府県に対し緊急事態宣言、
更に緊急事態措置の要請を受けて、
ご本部から【第5報】の通知があり、
全教会を完全閉鎖体制に
移行することとなりました。

ゴールデンウイークを目前に見据えつつ、
3密(「密閉」「密集」「密接」)状態を作らず、
不要不急の移動を避けることが、
感染による拡大防止と命を守る行動指針として、
我々一人ひとりに投げ掛けられています。

しかし、外出をしないことで
自身の動きが小さくなると、
相まって思考や視野が段々と
狭まってしまうように感じられます。

そんな時だからこそ、
今月の会長先生のお心を
しっかり受け止めさせて
いただくことが肝要だと存じます。

さて、今月は
『悠々として、心安らかに』
と題してご法話を頂戴しました。

前項は、「妙好人・石見の善太郎」
のお話をもとに、
私たち自身にどのように対処するかを
問うてくださいました。

妙好人
(白蓮華にたとえられるほど
清らな人柄の、信心深い念仏者のこと)
と称えられたこの方は、
若いころは素行が悪く
周りの人々からも疎まれていたようですが、
信仰に目覚め石見の善太郎さんと
敬愛されるようになったのでした。

このお話は、ご法話をご拝読ください。

【佼成5月号】  『朗読版』

ある日、訪ねてきた信仰仲間に
着物どろぼうと激しく罵られる
事態になっても、
お詫びし更に代金と共に
仏壇に供えられていた草餅を
土産として持たせた。

家に帰った信仰仲間がみんなで
草餅を食べようとしたとき、
その家で働く娘が
着物は自分が盗んだと
罪を打ち明けた、というお話でした。

私たちに対して、
同じ立場におかれたら、
この事態をどのように受けとめ、
対処するでしょうか?
と投げ掛けていただきました。

私は、先ずは身に覚えが
ないわけですから否定をし、
十中八九弁明をすることや
他に該当する人がいるはずだと、
身より遠ざける行動をとると思います。

さて、皆さんはいかがでしょうか?

後項は「楽しく仏道を歩む」
として、先のお話しから、

【やみくもに人を非難したり、
人の話も聞かずに自己主張したりする人には、
できれば会いたくありません。
まして、どろぼう扱いされたりすれば、
冷静に受けとめられないのがふつうです。】

とふつうの自分に安堵するところですが、
我々信仰者としては如何なものでしょうか。

善太郎さんの対応には感心もしますが、
私たちはどちらの自分でありたいと
願っているのかが、
キーポイントのように感じます。

それを、会長先生は、

【「阿弥陀さまにすべてをおまかせしている」
という善太郎さんの絶対的な「信」
によるものではないかと思います。】

とお示し下さいました。

やましいことは何もない。
仏さまはすべてご照覧なのだ。
という【悠々として安らかな気持ち】
だから 先のように受けとめることが
できたのではないでしょうか。

私たちは、いつもこの心もちを目指して
日々精進させて頂いているのでしょう。

ふつうの心もちで安堵してしまうことに
危機感をもちました。

この世は持ちつ持たれつの
関係性を理解していれば、
相手をやり込めて満足することは
一時の充足感を享受している
だけかもしれません。

今月は法華経の「勧持品」の一節
「我身命を愛せず、但無上道を惜む
(われしんみょうをあいせず、
ただむじょうどうをおしむ)」

この一節は信仰者の強い意志を
示すというだけではなく、

【いま、この地球に生まれて
生きている奇跡に気がつけば、
「自分さえよければいい」と
自己に執着している場合ではない、
生かし生かされあう縁(えにし)に
感謝することが大事なのだ、
という意味にも受けとれます。】

どこまでいっても感謝を忘れない
日々が大切だということです。

そのような、

【感謝に目覚めたら
一人でも多くの人と
感謝の気持ちを共有しようと、
法華経の教えによって感謝に目覚めた
私たちであれば、教えを伝え、
生きる喜びと感謝をともどもに味わおうと、
一歩を踏みだすことです。】

ここは法華経の教えを基として
生きる者としての意味をお示し下さいました。

ふつうではいられない私たちの生き方は
どうかと内省と懺悔の気持ちです。

最後に、この一歩を踏みだすことは、

【相手を変えようとか、
説き伏せようとするものではなく、
喜びをもって仏の教えを実践し、
人びとと心楽しくふれあうなかで、
いま命あることの有り難さに
目覚めてくれる人がいればそれでいい】

と悠々として、心安らかに生きる
信仰者の神髄を妙好人に見たと
締めくくりいただきました。

現在も、コロナウイルス終息を願いながら、
自分のなすべきことを
先ず私から実践していこうと、
皆さんと心合わせているところです。

とにかく、3密を作らない、
手洗い、うがい、マスク着用などの
自身ができること、するべきことを
しっかりすることが、
やましいことはないという
妙好人の心のもち方ではないでしょうか。

直接会えないからこそ、
会えていたことに感謝できます。

それでも、私たちには、
電話やメール、SNSなど工夫すれば、
直接会っていたこと以上に
感謝の出会いができるのだと思います。

私も、教会役員さんや
青年各部長さん方と遅まきながら
SNSを介してつながりを持たせていただく
お手配をいただきました。

これを機縁にいろいろな情報が
共有されていくことを期待しております。

皆さまも、未だ終息の先は見えませんが、
心ひとつに合わせて【即是道場の精神】で
この状況を乗り越えて参りたいと存じます。

合 掌

立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

令和二年四月度 ご法話を学んで

2020.4.1

皆さま、日々ありがとうございます。

未だ収束が見えない状況下にあって、
アジアのみならず
世界規模の感染拡大している
新型コロナウィルスですが、
自粛や、中止、延期などの
対応だけではなく、その内容が
大切になってきているように感じます。

何度も伝えられる推奨の対応は
マスク使用、手洗い、うがい、
咳エチケットなどの徹底ですが、
まだまだなされていないところは
反省をしつつ 改めて実行の徹底を
しているところです。

四月は仏教三大行事の一つである
降誕会(ごうたんえ)の月でもあります。

お釈迦さまの生誕をお祝いしつつ
自身のいのちの尊さを省みる
意義ある月でもあると存じます。

会長先生のおこころでもある、

「感染拡大を避けることを
最優先とさせていただきます。
『法華経によって人を救い、世を立て直す』
という創立の精神をかみしめ、
教会長を中心に、一人ひとりが工夫して
布教してまいりたいと存じます。」

という方向性に沿って、
引き続き進めたいものと
考えております。

 

さて、今月は
『偏った見方を越える』と題して、
学ばせて頂きたいと存じます。

前項の『「自分は正しい」という偏り』では、

【自分の感情や都合を大事にする
そういう見方や受けとり方を、
私たちは多かれ少なかれ
していると思います。
これは、いうまでもなく
自己中心の狭い見方です。】

更に、この見方が高ずると

【とらわれや偏見が強くなって、
ものごとを正しく見る目が
さらに曇ります。】

と教えて頂きました。

そこで、法華経の提婆達多品の一節である

『等正覚を成じて広く衆生を度すること、
皆提婆達多が善知識によるが故なり』

をお示しいただき、これは私たちが、
偏った見方から大きな見方へと
心を切り替える、スイッチのような
役割をもつ一節ということを、
私自身が受け止めさせて頂くに、

どんな事象が目の前に顕われたとしても、
先ずは私にとって必要な出来事である
という価値観で捉えてみることが
先決なのではないかと
受け止めさせて頂きました。

後項にある『仏性をひたすらに信じる』では、

【深い闇の底にあった地平線が
白みはじめるころ、
明けの明星(あけのみょうじょう)の
輝きを受けて、
釈尊は悟りを得られたといわれます。】

には、宇宙的視座で見た、
または明星の輝きが仏性の輝きと重なった、
という可能性を感じながらも、
ともかく見えている世界の有り様が
全く違う見え方となること
を示していただけているものと存じます。

そのくだりを、

【「みんな仏性」という見方に立てば、
偏った見方で人を傷つけたり
争ったりすることはありません。】

というお言葉が、
偏りのない私づくりへの道筋として、
明らかになった思いです。

更に、大切な確認をいただきました。
先生も誤解されやすいと仰ったところですが、

【仏性を信じるというのは、
相手のいいところを
見ることではありません。
相手を、まるごと仏性として
拝むことです。】

と言及なされたことは、
私自身の内省を促してくださいました。
良いところ探しだけで、
あたかも仏性礼拝を解ったかのように
思い違いをしていたのではと
今一度振り返る機会でもあるように感じま

自身の価値観を一度降ろしてみるということを

【すべての仏性をひたすらに信じるなかで、
私たちは矛盾と葛藤とも向きあい、
人として成長していくのだと思います。】

として、中々見ることが
難しい見方ではありますが、
しかし、見てみたいという希望を
持ち続けることができているとすれば、
とりわけ有り難いことではないかと存じます。

その事に4月の降誕会(ごうたんえ)
の機会には、
お釈迦さまがお生まれになった姿である、
誕生仏に接して

【純真無垢な心を取り戻し、
自他の仏性を深くかみしめる】

自身の中の希望、可能性を
信じてみたいと決意しているところです。

最後に、東京オリンピック2020の
延期がなされるようですが、
この一連のコロナ対策のことからも、
私たちの本質は世界規模で繋がっており、
自分のことだけに終始するのではなく、
生きとし生けるものすべて、
周りのひとの幸せを願い、
こういう時だからこそ
心を一つにして丁寧に
取り組んで参りたいものです。

その心もちが、年頭のご指導でもある
「即是道場の精神」の発揮であると存じます。

今月も、皆さんと共に修行精進の道を
歩ませて頂きたいと存じます。

合掌

立正佼成会 奈良教会長  中村 浩士

 

『佼成』四月号

令和二年三月度 ご法話を学んで

2020.3.1

皆さま、日々ありがとうございます。

現在、新型コロナウィルスの感染拡大を受け、日本国内でも大規模イベントなどの自粛や、中止、延期などの対応を余技なくされているところではありますが、是非とも、会長先生のおこころを頂戴し取り組んで参りたいと存じます。そこで「3月は創立記念の大切な月ですが、感染拡大を避けることを最優先とさせていただきます。「法華経によって人を救い、世を立て直す」という創立の精神をかみしめ、教会長を中心に一人ひとりが工夫して布教してまいりたいと存じます。」という方向性に沿って進めたいものと考えております。

場合によっていつもと違ったかたちで行われることがありますが、今月の佼成の会長先生のご法話は、当にこのような状況の中での精進をお示しいただいていると感じております。

 

さて、『今月は満足できる幸せ』と題して、学ばせて頂きたいと存じます。

「欲をはなれると」と前項には(欲深き人の心と降る雪は 積もるにつけて道を忘るる)という道歌のとおり、欲の皮が張っていると、人は、人として歩むべき道をいつしか見失ってしまいます。とお示しいただいたところから、二方向の捉え方を感じました。一つは文脈の通り、欲が深いとは必要以上の欲の心を使うと本質的な救いの道から外れていくのだというところと、もう一つは、本質的な救いの道を見出せないのは、過剰に欲ばり自分中心のものの捉え方に終始している時でもあるのだと、自身を振り返ってみました。

 

そんなとき、日増しに新型ウィルスの対応を求められるところとなっている中でも、どうしたら教えに則した修行精進ができるか、また会員の皆さんにもご理解をいただけるかを教会役員の皆さんと検討を繰り返してきました。先般も、工夫した布教という観点で準備も整い、さあこれからと一歩を踏み出そうとした矢先に、更なる対応として教会道場の期間的使用制限や、布教の延期や中止という、対応に閉塞感をもったことは事実でした。しかし、その閉塞感が先の避けることを最優先するという、会長先生の私たち会員一人ひとりの健康や幸せを願って下さっているお心をいかに理解できていない私だったことに気づかせて頂きました。

 

人のためにさせて頂こうと願っていたことであったはずなのに、準備したことが出来なければこの瞬間的に湧きあがった不足、不満の感情は、「自分の思うとおりにしたい」という必要以上の欲の心でありました。心が、「我」=「自分のこと」でいっぱいの状態というご法話のとおりの自分だったのでした。

 

後項の、「感謝こそ」にあるように、法華経の「見宝塔品」にある頭陀行:ずだぎょう(煩悩を振るい落とし、払い除く)を「少欲知足」とも言えることから、欲を少なくして足ることを知る生き方、特に、与えられたものをできる限り素直に受け容れて、感謝のうちに暮らすことは、常日ごろから頂いているご指導であったことに、改めて自身の到らなさを痛感しております。

しかし、法華経をとおして仏の教えを学ぶ私たちは、いつでも「満足できる幸せ」のただなかにいるといってもいいのかもしれません。とご教導いただいたことは、その気になればいつでもそのようになれる状況にあることを深めて頂きました。

 

あらためて、「生きていくなかで、授かったすべてに合掌する」ことこそ、冒頭にありました、本質的な救いという、忘れてはならない大切な道であると思考が定まりました。

やはり、どんなときも、感謝と喜びを忘れない日々の暮らしそのものが、ほんとうの満足と幸せであるのだと、学ばせていただきました。

 

最後に、未だ、収束には到っておりませんが、自分のことだけに終始するのではなく、周りのひとの幸せを願い、こういう時だからこそ、心を一つにして参りたいものです。

その心もちが、年頭のご指導でもある「即是道場の精神」の発揮であると思います。

今月も、皆さんと共に修行精進の道を歩ませて頂きたいと存じます。

 

合 掌

立正佼成会

奈良教会長 中村 浩士

『佼成』会長法話 3月号

令和二年二月度 休刊

2020.2.1

申し訳ありません。

諸事情で今月度は休刊させていただきます。合掌

 

 

『佼成』会長法話

令和二年一月度 ご法話を学んで

2020.1.8

新年あけましておめでとうございます。
皆さまに旧年中は大変お世話になりましたことと共に、元気に新たな年を迎えさせて頂きましたこと重ねて感謝申し上げます。

皆さまにおかれましても、年号も令和として初めての正月を迎え、今年こそ良い年にしようと心機一転これまでの自身を反省し、より良い自分づくりの決意を新たに過ごされているところと存じます。わたくしも昨年来、会長先生より振り返りの大切さと目標を持つことの意味を丁寧にお教えいただいておりましたおかげさまで、年末にまとまった反省を基に今年の菩薩行実践の決意を新たにさせて頂いております。

さて、年頭ご法話『尋常(つね日ごろをたずねる)』において、平和を実現するにはまず、家庭の中で宗教に基づく平和な心、人間性を養うことから、日々の信仰生活が平和に直結していることだとお示しいただきました。更に、教団計画大綱「令和二年次の方針」で私たちは創立100年に向けて「即是道場の精神」をもって修行すること、特に在家仏教徒は家庭、職場、学校、地域社会の自身のおかれたところで、一つひとつ手を抜かず、丁寧に、心を込めて取り組んでいくことで、良い習慣が身につき、自ずと身心が調うのだと教えてくださいました。その具体的な取り組みはというと「菩薩行」であり、「菩薩」とは自分が悟りを得たいのと同時に他の人々をも救いたいという心を起こした人であり、その心をどこにおいても忘れずに精進することが「菩薩行」である、そのような心もちが「即是道場の精神」でもあると受け止めさせて頂きました。この先生のお心を大切にして令和二年次の精進を決定させて頂きます。

そして、佼成一月号のご法話『ほんとうの自分に帰る』でも、年頭月の会長先生のお心として学ばせて頂きます。前段「一年をどうすごすか」で新たな一年を迎えた私たちの前には、まっさらな「時」が広がっているということは、これからの「時」は自分の心もち一つでどのようにもなるのだと思いますと、明るさと共に希望に満ちた誓願をもつことができるチャンスだと受け止めさせて頂きました。更に授学無学人記品に説かれている釈尊の一子である羅睺羅(らごら)の密行についてお教えいただきました。その羅睺羅とは、彼を見守る人々の苦心と、彼じしんの必死の努力によって、密行すなわち教団のさだめを守ることにおいては、もっとも綿密な修行者になられたそうです。ここに示された努力とはどのようなものであったかが、後段の「素直に、謙虚に」の中で、『先輩たちの指導や助言を聞き、謙虚になって、人が見ていないときでもひたすら教えを学び実践しつづけたからだと、私は思います。』とご指導いただきました。それは、年頭ご法話でもありました
「即是道場の精神」と受けとめる次第です。羅睺羅は王子であった身の上に甘んじることなく、法(教え)を継ぐことの人生的意義を摑まれたのちは、身を慎み、つねに「素直であろう」「謙虚であろう」と心してただただ静かに精進を重ねる姿勢が「密行」であり私たちも大切にさせて頂く努力の有り様ではないかと感じます。私たちが日々精進としているこの努力は何のためにするのかというと、本題にある「ほんとうの自分」に帰るため、人が生まれながらに授かっている仏性の有り難さにめざめ、貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)などの煩悩を離れるためであることを忘れずに目標としての人間性を養うことでもある優しく明るく温かい私となるためにお互いさま心新たに一年を皆様と共に精進の道を歩んでまいりたいと思います。皆さま今年一年どうぞよろしくお願い申し上げます。
合掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

『佼成』会長法話 1月号

令和元年十二月度 ご法話を学んで

2019.12.1

「弁を尽くす」

 

日々ありがとうございます。

先ずは、奈良教会発足四十六周年記念式典をお迎えし、奈良教会にお役をいただいて無事一年を終えることが出来ました。会員のみなさまをはじめ多くの方々に、ご支援ならびにご教導いただきましたことあらためまして感謝申し上げます。

 

今月は、『弁を尽くす』とご法話を頂戴しました。

聖書の有名な言葉から、前段の「言葉の力」では、言葉を使うことによって、私たち人間は心の成長・進化してきたとありそれは、『人間が生まれもって授かった心、すなわち「人」としての素朴な感情や意思を、言葉を使ってまわりの人に伝え、コミュニケーションを繰り返すなかで「人間らしい心」が育ってきたということです。』と言葉の発達に心の成長が追いつかないのか、心が退化しているのか、『言葉が人を傷つける道具として使われることも多いのです。』と、言葉の力はとても大きいという理解が深まれば、『いまは、沈黙のうちに自らを省みることの方が重要なのかもしれません。』と受け止めさせて頂きました。コミュニケーションの大きな手段である言葉の使い方を考えることが、人とよりよい関係を築くために大切な要素であることを教えていただいたものと思います。

 

後段の「富楼那(ふるな)に学ぶ」で「五百弟子受記品」に説かれている説法第一といわれた(富楼那ほど言葉の力を最大限に駆使し、発揮できるものはいない)と称える一節で、「この人に幸せになってもらいたい」という一心で教えを伝えた言葉は強く心に響いたとあり、立て板に水のように話すことではなく、『大事なのは、相手の顔が自然とほころぶような柔和な態度で、思いやりをもって言葉を交わすことです』とお示しいただきました。ここを学んで浮かんだ言葉は《相手の立場にたって和顔愛語(わげんあいご)》ということが大切なのではないかと思いました。

さらに、『作文の書き方に関する作家の井上ひさし氏の言葉ですが、「単純に、わかりやすく」「自分にしか書けないことを、自分の文章で」という二つが参考になります。』といただき、『自身の体験であれば自分の言葉で語ることができます。』と体験の大切さを示してくださいました。『味わった感動や気づきならば、素直に話せます。完璧な人はいませんから、教えのなんたるかがよくわからなくても、わからないまま、「ありがたい」「うれしい」という気持ちとともに、自分の理解に応じて話すことが、「大切なことをだれにもわかるように」伝えることなのです。』と教えて頂きました。私は、このことを伺って、過去先輩に言っていただいた言葉も合わせて思い出しました。それは、現在もそうですが教えの理解についてまだまだ自信がなく、不安でいっぱいだったころ、自分の中に湧き上がった感動や気持ちは、誰のものでもなく私の中にある事実なのだから、自信をもって話すことができるのだと、言っていただいた言葉が、その後のターニングポイントとなり、せめて理解できたことだけでも精一杯感動をもってお伝えしよう、という決意ができて日々精進の心構えの軸が少しずつ強くなることができました。

 

最後に『今年、あなたはどのような感動を味わったでしょうか。そして、どんな「大切なこと」を人にお伝えしますか。』と投げ掛けを頂戴しました。ここでは、私の中にある感動を見つけ、伝えたいと思える方に伝えたくなる気持ちにもならせていただきました。私は身近な家族と日々お出会いする皆さんに伝えたいと思います。改めて、会長先生の大いなるお慈悲の中に、入れて頂いている安心感と、全ての人の幸せを願って下さっているお心に報恩感謝で修行精進を決定して参りたいと存じます。令和二年次も今月も皆さんと共に元気に修行精進して参りたいと存じます。

合 掌

奈良教会長 中村 浩士