立正佼成会 奈良教会 > まほろば 奈良教会長コラム

まほろば 奈良教会長コラム

令和三年七月度 ご法話を学んで

2021.7.1

★佼成7月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成7月号】

(朗読 MP3)

 

令和三年七月度 ご法話を学んで



日々ありがとうございます。

七月の佼成、会長先生のご法話
『慈しみの眼をもって』
を学ばせて頂きます。

先月のご法話の最後に
菩薩の実践についてふれることを
示してくださっておりました。

引き続き法華経の観世音菩薩普門品の
一説から更に深まりのある
学びとさせていただきたいものです。

 

前項の「慈眼をもって衆生を視る」では、
慈悲の眼で世間や人々を見るとは、
どのようなことを大切にする見方なのか?

そこで山尾三省氏の詩が
その答えともいえるとして
紹介くださいました。

その詩から作者がほんとうに
大事なことをわかってほしいとい
う願いからできた作品を
手掛かりに考えれば、
「慈眼をもって衆生を視る」とは

【誰の中にも、観世音菩薩と
同様の深い慈悲心が
流れていると見ること。
そして、自他一体の大きな
「いのち」を生きており、
お互いにそのような尊い命を
頂いていると見ること】

が無量の福を呼ぶ慈しみの眼だと
お教えくださいました。

更にその詩から、私が注目したことは
《喜びを与えてくれる
・慰めを与えてくれる
・人を責めることをしない
・許してくださる》
という行いに自身やお相手の
中にある観音菩薩の慈悲心を
感じるのではないかと思います。

 

後項の「足元を照らす灯に」では
作家の立松和平さんの体験をもとに、
お互いに困っている状況の中で、
相手の役に立とうとする
心は大いなる救いとなり、
いたわりや思いやりという
淡い光の中にこそ、
菩薩が立ちあらわれると
仰ってくださいました。

私がその立場であったなら、
疲れ切った中で下を向いたままの
心が折れそうになっているだろう、
そのときに目に映ったその小さな灯は、
私は間違いなくそのご婦人までの
距離を安心して歩めた希望の光
だったのではないかと思います。

またご婦人にとっても頼りに
されたことは大きな自信にも
つながったのではないかと存じます。

どちらにとっても心の安心となり、
先のいたわりや思いやりを
感ずる場面ではと推察します。

ここで「普門示現」という
言葉が出てきましたがそれは、
【あらゆる衆生を平等にいつくしみ、
しかもそれぞれの人を救うためには
それぞれの人にふさわしい身となって
示現される:新釈出典】
とあります。

更に、ここで仏さまの根本的な
お心でもある、如来寿量品の一説
【どうしたら、衆生を仏の道に
みちびき入れることが出来るのだろうか。
どうしたら、早く仏の境地に
たっせしめることができるだろうかと、
つねにそれのみを念じているのです
:新釈出典】
という仏さまの本願をわが願いとして
日々の精進に励むことが
皆の幸せになることがわかると、
この観音経が私たちへの励ましと
救いへの実感として聞こえて
くるのではないでしょうか。

最後に、それを自身の目標においたときに、
私こそが観音菩薩になろうという
気概を持つことができるのだと
思わせて頂きました。合掌

立正佼成会 奈良教会長 中村浩士

令和三年六月度 ご法話を学んで

2021.6.1

★佼成6月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成6月号】

(朗読 MP3)

 

令和三年六月度 ご法話を学んで



日々ありがとうございます。
六月の佼成、会長先生のご法話
『観音さまを念ずる』
を学ばせて頂くにあたり
今月の会長先生のお姿から
仏さまのように念ずることの
大切さを改めて感じた方も
居られるのではないでしょうか。

前項の
「自分の可能性を自覚する」
では、観音経という経題は
耳に久しいお経ですが、
困りごとがあると
何となく25番のお経を
あげていた自分を思い出します。

そこを
「観音経は単に念じれば救われる、
助かると教えるものでは
ないとうけとめています。」
と過去には、いかに真逆の
受け止め方をしていたものかと
赤面するばかりです。

しかし、そのことも真剣に向き合う
きっかけになるのであれば
尊重すべきことで、
その理由は法華経のなかの教え
だからだと言及くださいました。

法華経は
「仏になる教え」
と教えて頂いていますが、更に言うと
【仏になることを自覚する教え】
であるとも受け止め
【救う、助ける】
ことは私がさせて頂くことだと
得心しました。

また
「観音妙智の力」
について開祖さまは
「苦難に会ったときに
はねかえす内面的な力、
かえってその苦難から栄養をとって
成長する不可思議は心の力」
と教えてくださっています。

その力を内在している自己の
可能性を自覚、信じ念ずるとき、
安心感とともに様々なことに
向き合おうとする気力がわいてくる、
今思えばそんな時はすでに
苦から救われていた実感とともに
自覚を深めていただけた体験も
少なからずあったのではないでしょうか?

続いて
「すべての人を救いたい、という願い」
で、様々な”苦悩”を越えたことを、
「自分に具わっている力」
によって立ち上がってきたことは、
真理に目覚めて
「新たな人生が開かれた瞬間」
とお示しくださいました。

それは自身の
【変化向上を自覚した瞬間】
ともいえるのではないでしょうか。

更に、
「観音さまを一心に念ずる素直な心と、
内なる観音とが一つになったとき、
自分本来の力がはたらく」
とありますが、それぞれに内在する人を
救いたいと願う心とそれを信じ
働きかける力こそが自分本来の力と
私は受けとめました。

観音さまがさまざまな
手立てをもって人々を救うことは、
「すべての人を救いたい」
という観音さまと同じ心が
私たちにもあることと
「人びとに幸せや安らぎを与えたい」
と願う心で自分が一人の菩薩となって
実践に踏み出す大切さを観世音菩薩の
大きな二つのお徳として
教えて頂いたと思います。

具体的に先の観音さまと同じ可能性と
真理に目覚めた素直な心を感じる
精進としてそれぞれに
”私なりの菩薩”
をもって日々過ごして参りたいものです。

皆さんはどんな
”菩薩”
をイメージされましたでしょうか?
次月は私たちがイメージした
”菩薩”としての実践を
会長先生のご法話から学ばせて
いただけるのではないでしょうか。

最後に、コロナ禍の状況は刻々と
変化の様相を呈しております。

変異株の状況やワクチン接種の様子など
毎日のように報道されているわけですが、
ここにきてワクチン接種が
現実味を帯びてきた現在においても、
自身の接種のご縁からより
多くの方々の幸せや安心のために
私に何かできることは無いだろうか
と改めて考える機会でもあります。

特にここにあって
大切にしょうと思うところは
”考える機会”
ではないでしょうか。

目の前にある事象のために
私は何ができるのだろうか?
と考え、そして実行してみましょう。

それが菩薩の第一歩でしょうし、
それが次月のご法話で
かみしめることになるのでしょう。

今月も皆さんと共々
即是道場の精神で
精進してまいりたいものです。

合 掌             

立正佼成会 奈良教会長 中村 浩士

 

令和三年五月度 ご法話を学んで

2021.5.1

★佼成5月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成5月号】

(朗読 MP3)

 

令和三年五月度 ご法話を学んで



日々ありがとうございます。
五月の佼成、会長先生のご法話
『ていねいに暮らす』
をかみしめて参りたいと存じます。

前項の「分別しない」では、
私たちは行動の多くを知らずしらずに
大事なこととそうでないことを
分けて暮らしているのではないでしょうか?

という問いかけを頂戴し、
先ずは自身の一日の過ごし方を
振り返ってみたいものです。

朝目覚めてから行うすべてのことは
「一大事」であり、
その行いに対して心を注ぎ
“ていねい”に取り組むことに
変わりはないとお示しいただきました。

日ごろ私たちは、
直面することに重要度や優先度を
考えて様々な対処をしているわけですが、
先のお言葉から、重要度や優先度の
高低はあったとしても、
自身の都合によって気の無い返事や
真剣さのない行動をとっていることが
いかに多いことかと思います。

そう受け止めると
「朝目覚めてから」とおっしゃったことを、
イメージしてみますと
一日の一番初めに出会う他者は
家族でありますが、日々家族に対しての
あいさつは如何なものでしょうか。

「寝起きに頭がぼーっとしているから」や
「時間がなくて急いでいるから」
などと理由をつけて適当な
あいさつをしているとすれば、
そこで分別をしていた自身に気づかせて
いただけるのではないでしょうか。

実際、何事も大事にすることは
人として素晴らしいことは
誰しも理解できるところですが、
いつも張り詰めた状態も
長続きすることが難しいと
いうことも事実でしょう。

その心構えを後項の
「他者を思うことで」
で教えてくださっているのでは
ないかと存じます。

「普段気に留めないことに
少し心遣いを加えると、
それがより生かされる。」
とのことから、
いままで生活習慣に
流されがちなところをについて、
この機会にその場その場の所作や行動を、
おのずから“ていねい”
にしてみることに取り組んでみましょう。

それは「妙音菩薩品」で妙音菩薩が
数多くの三昧を得たことと
重ねてみることになり、
きっと近くにいる誰かの役に立ちたい、
遠くの国の誰かを喜ばせたいといった
妙音菩薩の願いを私も実感できる
のではないかと思います。

さらにいえばそのような心になると、
毎日当たり前のように行う
洗顔などにでも“ていねい”な
生き方をせずにはいられなくなると
最後にお示しくださいました、

【何を見ても「麗しきかな」
と受けとれる情感とともに、
いつでも幸福感あふれる日々が
そこにあります。】

を私たちの毎日に感じて参りたいと思います。

最後に、ゴールデンウィークを
目前に東京を始め関西3府県に
3度目の緊急事態宣言が発出されました。

対象地域と密接な関係にある
奈良においても同様に感染予防に
努める必要があると存じます。

そんな中、誰の間にも
イライラ感のようなもの多くが
漂っているように感じますが、
そんな時にぴったりな今月のご法話を
大切にさせていただき
緊張感を持った日々の過ごし方に
なりがちな状況にこそ
“ていねい”という視点を
持つことができるのではないでしょうか。

更に、そのことが“ていねい”
に取り組むことによって
感染予防にも通じることもあるでしょう。

それでは今月もご縁の皆さまと
共にかみしめつつ有り難さを
実感のできる精進を
してまいりたいと存じます。
合 掌

立正佼成会 奈良教会長 中村 浩士

令和三年四月度 ご法話を学んで

2021.4.1

★佼成4月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成4月号】

(朗読 MP3

 

令和三年四月度 ご法話を学んで



日々ありがとうございます。

四月の佼成、会長先生のご法話
『いまをともに生きる』
を頂戴しました。

前項の「実践によって仏になる」において、
四月八日の仏教三大行事の一つである
降誕会
(お釈迦様がお生まれになった日)
をお迎えいたします。

※誕生したとき、
天人が香華を舞い散らせ、
竜が清らかな水を降らせて
産湯としたという
故事にもとづき、
降誕会では、季節の花で飾った
「花御堂(はなみどう)」
に誕生仏を安置して、
参拝者が甘茶を灌(そそ)ぎます。

降誕会が
「花まつり」「灌仏会(かんぶつえ)」
とも呼ばれる所以(ゆえん)が
ここにあります。
・・・教団HPより抜粋

また、生誕直後、
四方に7歩ずつ歩み
「天上天下 唯我独尊
(てんじょうてんげ ゆいがどくそん)」
と言われたとされています。

この言葉は
「宇宙に存在するすべてのものは、
仏のいのちを具えた尊い存在である」
という意味です。
・・・教団HPより抜粋

この言葉を「誕生偈」と言いますが、
仏教の本質をこれ以上ない表現で
示したものと仰っておられます。

それは釈尊だけではなく、
人はだれもが生まれた瞬間から、
それぞれ他と比べようのない
尊い存在であり、
そもそも仏教とは、
自らの命の尊さを自覚して
生きることを教えていることからも、
仏教の核心を伝えてくださっている
出来事だというのです。

合わせて、仏教は
「人が人を救う教え」
であることを踏まえて、
【生まれによって聖者となるのではない。
行為によって聖者となるのである】
という、忘れてはならない点に
今一度着目してみましょう。

道元禅師の「修証一等」
という言葉の意味は、
修行と悟りを区別しないということですが、
もっと言えば仏教の教えを
暮らしに生かす日々の精進と
いうことになろうかと思いますが、
私なりの表現とすれば、
「誰でも有り難い精進ができることは希望」
だともいえるのではないでしょうか。
それこそ、必要あってこの世に
命を授かった私の人生をど
のように生きたいと思っていますか?

という会長先生からの
問いかけなのではないでしょうか。

続いて、「春風となって」では
法華経の「薬王菩薩本事品」から
仏さまの教えを身をもって
実践することの大切さと、
その姿が多くの人に影響を及ぼすことを
「まず人さま」で
身と心と言葉を尽くすと
自分の幸せや喜びとともに、
みんなの救いにつながる光明と
お示しくださいました。

その心は薬王菩薩のお徳分でもある
自己犠牲の本意
「身をもってする法の実践」
であり、自分を犠牲にして
法のためにつくすという積極的な実践に
通じていくのではないでしょうか。

教えを知っていることも
大切なことではありますが、
困っている人にとっては
実際に手を差し伸べてくれることが
何よりの救いとなることも踏まえて、
それによって受けとめることができた
温かさや思いやりの心によって喜びとなって、
自他の命の尊さに目覚めることにも
なっていくのだとご指導いただきました。

先日、ある青年部員さんがおこしになり、
「自身が今のようにあることは
関りを持ってくださった
部長さんのおかげです。」
と、伝えたいとして
沢山のこれまでをお話くださいました。

そのお話をお隣で、
黙ってうなずきながら聞いている部長さん、
お二人の姿を見ているだけで
大きな喜びであり
お互いの命の尊さに目覚めているという
会長先生のご指導のごとくを
目の当たりにさせていただきました。

最後に、
「春風のように軽やかに
慈悲の心を届けられる日を待ちたい」
という結びを頂戴しましたが、
コロナ禍の状況は
変わらずあったとしても、
そのお心を受け止めて
私たち一人ひとりが、
慈悲の心をお届けできる
サンガを創造させていただこうという
強い決意を持ちたいものだと
思わせていただきました。

それでは今月もご縁の皆さまと共に
かみしめつつ
有り難さを実感のできる精進を
してまいりたいと存じます。

合 掌

立正佼成会 奈良教会長 中村 浩士

令和三年三月度 ご法話を学んで

2021.3.1

★佼成3月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成3月号】

(朗読 MP3

 

令和三年三月度 ご法話を学んで



日々ありがとうございます。
緊急事態宣言の解除要請の報道が
なされている昨今ですが、
奈良教会として今しばらくは
現在の取り組み方である自粛による
護持体制を継続することになりました。

しかし、注意深く状況と動向を精査し
役員の方々とも検討を
させていただきながら、
安心して精進できる状況になりましたら
段階的に布教体制を整えて参りたいと
願っております。

さて、三月は新たな出会いや
環境に巡り合うことが多い時期です。

立正佼成会としても三月五日の
創立記念日という意義ある月を
お迎えさせていただきます。

お慈悲を頂戴すると共に皆さまと
喜びの心を深めて参りたいと存じます。

また、これを機縁に教団の
創立の精神を今一度かみしめ、
開祖さまをはじめ先達の方々が
努力精進されたおかげさまを感謝で
受け止めさせていただきたいと存じます。

三月の佼成、会長先生のご法話
『信じて任せる心』を頂戴しました。

前項の「仏の立場で見る」では冒頭、
新たな環境に出会うことの多い時期に、
まずは、出会いの意味や尊さや意義を
お示しいただけたのではと存じます。

それは、「仏の立場で見る」ことで
新たな出会いに喜ぶばかりではなく
引き続き肩を並べる方々とも、
新たな気持ちで取り組むこととも言え、
信頼という人間にとって大切で
大きな功徳に気づける秘訣を
お教えいただいたように存じます。

更に言えば、だれもが幸せになる力を
持っていることを信じることは、
安心して日々を過ごすことにつながること
だとも受け止めさせていただきました。

それを、「嘱累品」での

「みんなが幸せになれるよう、どうか
みなさんに法華経の教えを伝えてください。
よろしく頼みますよ」

という仏さまから弟子である菩薩さまに
託される場面にあるように、
改めて仏さまのように相手の可能性を
信じる心を持たせていただきたいものです。

後項の「釈尊の信託と創立の願い」の中で、
「信」という字の組み合わせから、
人の言葉は「心のあらわれ」は
【マコトを意味する】
ことをお示しいただき、
誠意をもって言葉を発することは、
人を信じることや、
信じられる人になることにも
つながるともお教えいただきました。

しかしながら自身に置き換えてみても、
誠意の言葉の大切さや重要さの
理解はしているつもりですが、
なかなかできていないことに
大きな反省をしているところです。

ここで、浄土宗の藤井実応師の言葉にある

「まかせたる身は安らかで力強い」

には前項のおまかせすることの
安心は力強さにもなることと

「明るく生きてゆこう」

には元気に前を向いて
歩いていく様子が伺えます。

その大本は「アミダの中にともどもに」
にある仏さまという大いなる存在に
いだかれていることと
受け止めさせていただきましたが、
イメージとしては私自身が
まっすぐな道を元気にしかも
大きく腕を振りながら笑顔で歩んで
いるような様子を想像しました。

そんな心持ちで毎日
すごせるのだとしたら、
実感してみたいものだとお感じに
なられるのではないでしょうか。
皆さんはいかがでしょうか。

教えをお伝えすることで幸せになって
いただきたいという釈尊からの信託と、
開祖さまの信任を追い風にして
最後の二行にあるように

「まずは、前向きに心をととのえ、
神仏や人との絆を結ぶ
「信」を深めて参りましょう。」

という会長先生のお示しを創立の意義を
会員各家のおひとりお一人や
ご縁の方々などの皆さまと共に
かみしめ実感のできる精進を
してまいりたいと存じます。

合 掌
立正佼成会 奈良教会長 中村 浩士

令和三年二月度 ご法話を学んで

2021.1.28

★佼成2月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成2月号】

(朗読 MP3

 

令和三年二月度 ご法話を学んで



日々ありがとうございます。

寒修行も無事に取り組まれ令和3年次の
修行精進の心構えを決定された方が
多くおられることでしょう。

奈良教会は、ご本部で作成して頂いた
【心ひとつに 寒中読誦修行】
称するシートを活用して
14日間の寒中読誦修行で努力の末に
各々が定められた
誓願内容や感じたことなどを
【仏さまとの約束(私の誓願)】
というスペースにご記入いただきましたら
一年間教会のご本尊さまに
納めさせていただき
仏さまのご守護をより感じる精進の一年と
させていただこうとしております。

ご希望の方は支部長さんや
主任さんにお声掛けください。

さて、2月佼成の会長先生ご法話は
『人さまに喜ばれる人に』
と題してご指導いただきました。

前項は『「神力」とは何か』で
人知を超えた不思議な力「神通力とか神力」
について仏教の経典にありますが
神秘的な事として神力は説かれていますので、
自分たちには縁の無い遠いこと、
自分には身につけられない
特別な能力と思いがちですが、しかし、
それを会長先生は私たちにはできないことを
釈尊は説かれないと
おっしゃってくださいました。

では、神通力や神力というものは
何を意味するのかといえば、
「心」をもっていることと受け止められ、
人間の「心」の力やはたらきが
神通力だとお教えくださいました。

そこで、
《仏の教えを知り、
寄り添ってくれる仲間の支えで
「生きながらにして生まれ変わった」
という人が本会にはたくさんいますが、
ときに不思議としかいいようのない結果や
心の転換が起きるのも、私たちの心が
あらゆる可能性に満ちているから》

という件は、自身に振り返ると、
病魔に侵されつつもいのちの増益を得たり、
お互いを鼓舞する価値ある出会いを得たり、
逆境の中で得たものが
大きな自信につながったり、
他者に対する幸せを本気で願えたりと
まだまだ指を折れば自分の考えだけでは、
体験することができないような出来事に
後押しをされていたことに
気づかせていただきます。

その
《「神力」とは、一つには人を思う
「まごころ」であり、
そのはたらきが生む力をいうのです。》
と結んでくださいました。

後項の
『人に喜ばれることが「うれしい」』
では、佼成会はまごころという
『神力』を発揮する人でいっぱいですね。

とおっしゃった人のお話で、
法華経の如来神力品の一説から、
《神力は人々を喜ばせるためにあらわすもの》
とお教えくださり会員である
私たちが人に明るく、
やさしく、あたたかく接することを
大切にしている根本は、
人さまのために心をくだき、
思いやりの実践(行動)に
よって少しだけでも
その人に喜んで頂きたいと
いう願いを持っていること、
その実践こそが神力の発揮だと
お示しくださったのではないかと拝察します。

さらに、漫画家のやなせたかしさんの
エピソードから人を喜ばせる働きの
大切さに注視したうえで
人に喜ばれる生き方を心がければ、
だれもが自分のいる場所で
菩薩になれるというこのお示しは、
コロナ禍にある現状であっても
心を清める日々の精進のあり方として、
私たちに投げかけていただいている
のではないでしょうか。

何気ない毎日を過ごすことに感謝することを
いつもお教えいただいています。

しかしながら、その感謝が見えなくなると、
精進とはかけ離れたところにいる
自分にも気づくことは皆さんも
ご体験されているのではないでしょうか。

もしかして、環境や状況のせいにして、
できない理由をもって自己の向上を
あきらめていることがあったとしたら
とても残念なことだと思います。

ここに、寝たきりの状態でも
笑顔や感謝の言葉によって
人を喜ばせることが
できるという以前のお話でも、
よく考えてみるとその方の心持ちが
大事であることが読み取れるのでは
ないでしょうか。

《私たちは、みんなが仲良く生きる世界を
築く一人ひとりなのです》

このお心を受け止めて
今月の精進とさせて頂きたいものです。

また、
《いつでもまごころをもって、
人さまに喜ばれることを喜びとする人で
いっぱいの本会でありたい》

では会員である私から先ずは始めましょう
という率先垂範の心構えを
頂戴したように思います。

最後に、寒中読誦修行が終われば、
節分を迎え辛丑六白金星の年回りになります。

また、2月15日は涅槃会でもあります。

引き続きコロナ禍ではありますが、
会長先生のご法話にあるように、
簡単にはいかない状況や環境にあっても、
その中で誠意をもって良いことに
チャレンジしてみる過ごし方が、
よい風向きの一年になるようです。

一言で申し上げるなら、
菩薩として生きることが
ことさら必要であるようです。

今一度「即是道場」をかみしめて、
明るく元気に修行精進の2月を
皆さんとともに歩んで参りたいものです。

合 掌

立正佼成会 奈良教会長 中村 浩士

 

 

令和三年一月度 ご法話を学んで

2021.1.1

★佼成1月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成1月号】

 

(朗読 MP3

 

令和三年一月度 ご法話を学んで



新年あけましておめでとうございます。
皆さまに旧年中は
大変お世話になりましたことと共に、
元気に新たな年を迎えさせて頂きましたこと
重ねて感謝申し上げます。

昨年次はコロナ感染対策として誰もが
活動の自粛を余儀なくされた一年でした。

しかしながら、多くの会員の
皆さまから耳にするのは
「コロナのおかげさま」
という不都合な状況を受け入れる
心になっているご様子に、
み仏様、開祖さま、会長先生のお弟子であり、
僧伽(サンガ)としてのご修行の
賜物だと思わざるをえませんでした。

未だコロナの終息は見えませんが、
この教えによってコロナ禍であっても
感謝を忘れない日々が過ごせること、
コロナ禍による不安や苦悩を乗り越えて
いける実感を多くの方と分かち合い、
明るい令和三年次の精進を
お誓いしたいものです。

さて、佼成一月号会長先生ご法話
『常不軽菩薩のように』に学び、
私が受け止めさせていただきましたところに
ついてご案内いたしたいと存じます。

言わずと知れた常不軽菩薩とは、
妙法蓮華経の二十番に
お出ましされる菩薩さまです。

さらに、その常不軽菩薩の特徴は、
出会う人の誰に対しても
合掌・礼拝し讃嘆した方と説かれています。

それを踏まえて、会長先生の
ご法話をかみしめたいと存じます。

冒頭、『本年もまた「善いこと」
を繰り返し行って、お互いさま美しく
豊かな一年にしていきたいものです。』
とおっしゃっているのですが、
【また】という表現にドキッとしました。

私たちの多くは、先ほどのように
「コロナのおかげさま」
と言えることの尊さを振り返りましたが、
「美しく豊かな一年」
とまで昇華した受け止め方で
あっただろうかと自問し、
「善いこと」
を繰り返していたとしたらそのように
受け止めることができていたのでは
という疑問にもなりました。

ではその「善いこと」とは何なのでしょうか?

日蓮聖人は
「人の道―行動や態度を教えること」
といっておられることを引いて、
『私たちにとって生き方の基本となる、
日常生活における「善いこと」が示されている』
として深めて参りたいと存じます。

この常不軽菩薩は
どんなにひどい仕打ちを受けても、
人を見下げたり、怒りや憎しみを
抱いたりしないで耐え忍び、
罵声や暴力から身を遠ざけながら
礼拝行に徹した姿勢は、
仏教を信仰する者のお手本と
いえるとまで仰ってくださいました。

その終わりに、
「但礼拝を行ず」
の一言にこめられた精神をそのあとに続く
【かみしめ・味わい・血肉として・行動する】
までを一連の実践として
取り組ませていただきたいものです。

よく、身につくまでの実践といいますが、
まさに言葉通りの実践を決定する
ところだともいえるのではないでしょうか。

後項の『「常不軽菩薩」と「雨ニモマケズ」』では、
太陽の恵み、水や空気などあることが
当たり前のように思っているのは
私だけではないと思いますが、
当たり前のことになると関心ももてずに、
感謝のこころなどはさらさらとなりがちですが、
私を取り囲むすべてのものに
感謝することは大切な礼拝行であり、
具体的には、天気に文句を言わない、
水を大切に使い、ものを無駄にしないことも
合掌の一つの形とお示しくださいました。

青年の日にも掲げられていましたが、
全地球規模で取り組んでいくべき目標ともいえる
《SDGs※1》誰もが関わりを持っている
課題としてとりくむことは
すべてのいのちに対する礼拝の姿勢
ともいえるのではないしょうか。

さらに、人に不平不満をや愚痴をこぼさない、
悪口や怒りをぶつけないことも、
相手の仏性を信じて敬う、
人間としてのつとめともいえ、
まとめると、身近な行動や態度や言葉の
一つひとつが合掌・礼拝を身で
あらわす行と頂戴しました。

それをふまえて、会長先生ご自身が
「常不軽菩薩品」と重ねる気持ちで
お読みになって感銘を受けられた
全文をご紹介しておきます。

この全文に、法華経に縁のない人でも
菩薩としての行動や態度が
よくわかるわけですから、
ご縁の皆さんと、会長先生と
同じくこの詩を拝読させていただき、
年明けからの心持の指針として
かみしめて参りたいと思います。

《雨ニモマケズ》宮沢賢治
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ䕃ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

結びにあたり、令和二年という年は
世界的にも日々のあり様が根底から覆され、
新しい価値観を受け入れざるを
得ない状況に誰もがおかれました。

結果、自身を振り返ることで
感謝の人生を歩んでいたことに
たくさん気付かかせていただきました。

おそらく、この状況は引き続きに
なることでしょうが、この状況下にあっても、
会員のみなさま、はじめ関係各所の方々と共に、
即是道場の精神をかみしめ、
常精進の過ごし方を目指して
まいりたいと存じます。

先の宮沢賢治の詩の最後にあるように、
どんな自分になりたいのかを強く持ちつつ、
布教伝道、菩薩行実践のワ
タシニナリタイと祈念しております。

重ねて、皆さまに置かれましては、
良い年をお迎えくださいますよう祈念しつつ、
あらためて皆さま今年一年
どうぞよろしくお願い申し上げます。

合掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

※1SDGsとは?

持続可能な開発目標(SDGs)とは,
2001年に策定された
ミレニアム開発目標(MDGs)の後継として,
2015年9月の国連サミットで採択された
「持続可能な開発のための2030アジェンダ」
にて記載された2030年までに持続可能で
よりよい世界を目指す国際目標です。

17のゴール・169のターゲットから構成され,
地球上の「誰一人取り残さない
(leave no one behind)」ことを誓っています。

SDGsは発展途上国のみならず,
先進国自身が取り組むユニバーサル(普遍的)
なものであり,日本としても積極的に
取り組んでいます。外務省HPより抜粋

令和二年十二月度 ご法話を学んで

2020.11.30

★佼成12月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成12月号】

(朗読 MP3

令和二年十二月度 ご法話を学んで


皆さま、日々ありがとうございます。

十二月一日には教会発足四十七年の慶事を
迎えますことお喜び申し上げます。

祝典の機会は見送りせざるを得ないわけですが、
それぞれのご家庭で感謝の誠をかみしめてまいりましょう。

本年はコロナ感染に応じた生活を余儀なくされ、
家庭や職場、地域の活動を自粛することで、
感染リスクを下げる努力を会員のみなさまを
はじめご縁の方々と行ってまいりました。

その努力もあって会員各家のみなさまから
今のところ感染の報告はございません。

これもひとえに必要な対策を徹底したご精進の賜物と存じます。

引き続き、この状況は継続の様相を呈しておりますが、
まず自らが感染しない、感染させないという
基本的な行動をとってまいりたいと存じます。

さて、今月は『清々しい毎日をおくる』
と題してご法話を頂戴しました。

前項の、『即ち是れ道場なり』では
新型コロナウイルスの影響により、
感染した方や身近な人を亡くした方などの
そうした多くの方の身心の痛みや病気への
不安を一日も早くの終息を願い
祈っていてくださっている
会長先生に感謝とともに、私どもも
世界の皆さまのこころの安寧と早期終息を
祈念させていただけていることも大きな感謝です。

確かにコロナ禍にあって、
大きく生活スタイルが変わったわけですが、
わすれてはならない大切なことがあると
お示しくださいました。それが

「法華経の信仰に生きる人の生活の場は、
どのようなところでも、そこが道場である」

「法華経で修業とは、私たちの日常生活の
最中(ただなか)である」(久保田正文師)

を引用されています。

自分と違う意見や行動を敵視し排除しようとする
気持ちの多くは、正体のわからない不安や
今後の不透明さによる心のざわつきだと
思うと理解できるところはありますが、
その奥には、どのような心の動きが
あるのだろうかと一度受け止めてみると、
会長先生の仰っていただく

【自分とは違う意見の人の姿勢をも理解し、
やさしく柔軟に受けとめられたでしょうか。】

という問い掛けにその通りと
お答えすることができるのではないでしょうか。

そういう一つひとつ身に起こる出来事と
向き合えることが

「即ち是れ道場なり」

という精進なのではないでしょうか。

後項には『心がきれいになると』
において、法師功徳品には

【生きる姿勢や日々の言動をとおして
法華経の教えを実践し、世に弘める人は、
六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)が
清らかになるとあります。】

さらに、

【私たちは、毎日を清々しくすごす方法を知っています。】

と伺ってなお、そうではない自分と
向き合うことに躊躇することが多いようにも感じます。
しかし、ここでお示しくださっている、

【人の善いところが見えて悪いところを
探す気持ちが起きない。
なんでもおいしくいただける。
読経供養が習慣となり、人に会うと思わず合掌してしまう。
こういうことを無意識にうちに行っているとすれば、
きれいな心で円満な毎日を送っていると
いえるのではないでしょうか。】

との問いかけですが、私でも少なくともなんでも
おいしくいただけているとすれば、
私もきれいな心で円満に毎日を送っていると
自負してもよいのかもしれません。

法師功徳品にある

(法華経の教えを持つ人は、心が清浄なために
さまざまなはたらきができて、
たとえ迷いがすっかりなくなっていなくても、
高い境地に心安らかにとどまり、
多くの人に親しまれ、敬われることでしょう)

の一説がこれまでを端的に示していることと合わせて、
仏さまが語り掛けてくださっている相手は
「常精進菩薩」であることを、
会長先生は、釈尊が私たちに対して励ましを
くださっているようだと示してくださいました。
この励ましのことばでもある

「いつでも、どこでも、だれに対しても、
思いやりとやさしさ、そして
温かな気持ちを忘れない菩薩であれ」

を身において新たな令和三年次をお迎えしたいと存じます。

最後に、今年はコロナ感染対策に
明け暮れていたように感じますが、
その一方、会員の皆さまから聞こえてくる声の
多くはコロナのおかげさまという声です。

これまで感謝と受け止めることができなったことが
いかに有り難いことであったかを気付かせて
いただける機会とされた方が多かったようです。

会長先生のご指導のように
それぞれの置かれた場所で、菩薩として
苦しむ方に手を差し伸べようとされる方が
如何にこの奈良教会に多いことかという顕れであり、
一言でいえば「即是道場の精進」ということが
多くの方々に備わっているのだと思うと
この状況下も不必要な恐れを抱くことは
無いように思えてきます。

令和三年次の教団方針にある三つの方向性として

「教えによって救われる喜びを真に実感できること」
「新たな運営のあり方の創造」
「救いと運営に役立つツールの開発」

が示されました。これを私自身の修行の指針
として受け止めてまいりたいと存じます。

改めて、皆さまにはお身体ご自愛いただき
令和二年最後の月を迎え、
開祖さま、会長先生のお弟子として
ご法精進できる今あることに感謝の念を
かみしめさせていただきたいものです。

皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

合 掌

立正佼成会

奈良教会長 中村 浩士

令和二年十一月度 ご法話を学んで

2020.11.1

★佼成11月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成11月号】

(朗読 MP3

 

令和二年十一月度 ご法話を学んで



皆さま、日々ありがとうございます。
いよいよ、令和二年度の結びとなる最終月を迎え、
来る次年度をどのような年度とするかという
心構えを持たせていただける
開祖さま生誕会の月となりました。

最近耳にすることが多くなったと感じるのですが、
多くの方々がコロナ禍にあってご苦労されている
中でも、不平不満を言い続けている方と、
おかげさまと感謝の毎日を送られている方の二極に振
れてきているようです。

私はおかげさまで、自粛の初期は先の見えないことに
不安感を払拭できない時間がありましたが、
しかし、開祖さまのご著書や、会長先生のご法話に
暗闇の中に灯る希望と事態に向き合う勇気を頂戴し、
教会幹部の皆さんや諸役の皆さんと共に
励まし合いながら多くの協力を得つつ、
会員の皆さまには自粛というご努力の積み重ねで、
何とかここまで務めることができましたこと
厚く御礼申し上げます。

それは、会員各家において「即是道場の精神」を
受けとめられ、菩薩行実践をご自身の生き方に
転嫁できた功徳とも言えるのではないでしょうか。

お互いさまその功徳をかみしめ、
開祖さま生誕会の月に今あることの
感謝を深めてまいりましょう。

さて、今月は『「ありがたい」といえる幸せ』と
題してご法話を頂戴しました。
前項の、『随喜の心』で冒頭から法華経の
「随喜功徳品」の教えを聞いて心から歓喜した人が、
その喜びを別の人に伝えることの功徳について、
「五十展転(ごじゅうてんでん)」の教えを
お示し下さいました。

経題の「随喜」の意味である、「他人の善い行いを見て、
心に歓喜を生じること」は私たち一人ひとりにも
経験したことがあるでしょうと、
災害復興に協力するボランティアやコロナ禍の最前線で
尽力されている医療従事者などのお姿に、
敬意や感動をもった心が震えたことを
思い出させて頂きました。

更に身近な電車の車内の小さな女の子の無垢な姿にも、
様々に感動や心が癒され心が震えるような経験を
私たちはどうしてできるかというと、
小さな女の子と同じ無垢な心や苦しむ人を助けたいという
同じ気持ちが私たちにもあると仰ってくださり、
もっと踏み込んで、「実際に行動していなくても、
善い行いに心を打たれたとき、自分はもうそこに
参加しているのです。」と示して下さいました。

自身に振り返ると、なぜそのように行動できないのか。
どうして素直な気持ちになれないのか。
という悔恨の念を強く感じ、〈
仕方がない、しょうがない〉などという言い訳をならべて、
できない理由に安心する心のクセがあるように思います。

しかしながら、ご法話では、自分も参加していることと
受け止めると、どうしたら実践できるのか。

どうすれば素直になれるのか。という前向きな気持ちにもなり、
「あとは、その思いをどう体現するか」
という会長先生のお言葉から、私たちの目標や誓願に
つながるのだと、受け止めさせていただきました。

後項では『私たちが「感謝」できるのは』にあって、
高い目標を自身の状況と比べると卑屈な心境になりそうですが、
会長先生は「感動や歓喜を生きる力に変えたり、
すばらしいできごとに出会って「ありがたい」と
感謝したりできるのは、人間独特の感性といわれます。」

人によってできることは異なるのですから、
この人間独特の感性のおかげさまで、
お互いの違いを認め自身の個性や能力を発揮していくことが
できるのではないでしょうか。

しかし、「心をもつ人間だけが、嫉妬や怒りや欲に迷い、
ときに不調和に苦しみながら生きているのです。」
とありますが、逆にいつも「ありがたい」と感謝の心で
生きることは、大自然と調和している証しだと、
受け止めることができるのではないかと思います。

更に進んで、「何ごとも素直に「ありがたい」
「うれしい」と受けとめることで、
ほんとうの心の安らぎが得られることを知っています。」
というお心に、私たちは有り難いことに、
この教えに触れることができ、開祖さま、会長先生の
お弟子に加えていただいているが故に、
知っているという実感を持つことができているのだと存じます。

ここで、感動と感謝が凝縮された法句経の一節として
【人の生を受くるは難く、やがて死すべきものの、
いま生命あるは有り難し】
をご紹介下さいましたが、同じ一節について開祖さまは、
「ありがたい」というのは「有り難い」であり、
元の意味は「有ることが難い」すなわち「めったにないことだ」
というわけです。ひとから何かを頂いたり、親切にされたりしたとき
「ありがとう」というのは
「有ることが難いことをしてくださって感謝します」
というわけで、たんに「サンキュー」と礼を述べるより
格段に深く尊い意味を持っているのです。(中略)

この地球上には二百万種類以上の動物がいるそうですが、
その中で、ドブネズミやゴキブリでなく、
ブタやブロイラーでもなく、
人間としてこの世に生を受けたことは
何百万年も前からの因縁の積み重ねによるものであって、
まことに「有ることが難い」ことなのです。

われわれは、いつもはそうした有り難さを忘れていますが、
たまにはそのことに思いを致し、遠い祖先から現在の父母、
そして自分自身に至るまでの因縁の有り難さに
感謝しなければなりますまい。

先祖供養の第一の意義もそこにあるのです。
苦しみをもありがたいと思う
また、右のお言葉の後半の「いま生命あるはありがたし」
というのは、たんに生きていることが有り難い
というのではありません。

その奥には「天地の万物に生かされているありがたさ」
という意味が秘められていることを知らなければなりません。

太陽・空気・水・土・草・木などの自然物を始めとし、
米・野菜・魚など身を養うもの、羊毛・木綿など身を護るもの、
それを作っている人、それを運んでくれる人等々、
数えあげればキリのないほど
多くの人びとに、われわれは支えられ、
生かされているのです。

このことをつくづくと思えば、だれしも天地すべてのものに
感謝せずにはおられなくなるはずです。

それが人間らしい人間なのです。(以下省略)

抜粋(『佼成』1987年5月 日々ありがとうございます)

開祖さまのご法話にあるように、すべてに生かされている
私たちのいのちの有り様に気づくことが、
ほんとうの意味の感動と感謝の凝縮された心もちに、
ならせていただけるのだと受け止めさせて頂き、
これこそが、「命をいただき、
いまここに生きる人間の本質的な喜び」
ですから、人間らしい人間として素直に
人にお伝えさせていただき、まことの幸せを
私たちが広げて参りましょう。

最後に、未だ終息をみない状況ですが、
教えのおかげさまで明るく、優しく、温かくあることを
忘れずに過ごさせていただいております。

それも会員の皆さまがそれぞれの場所で
ご努力されているということが、
大きな力になっているとおもいます。

年度の最終月にあたり今一度、自身を振りかえり、
明るく、優しく、温かい自分づくりを目指して
誓願をもたせて頂きたいものです。

重ねて、今月は開祖さま誕生会の意義ある月を迎え、
全世界を巻き込んでいるコロナ禍であっても、
開祖さま、会長先生のお弟子として
ご法精進できる今あることに感謝の念を
かみしめさせて頂きましょう。

皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

合 掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

 

 

令和二年十月度 ご法話を学んで

2020.10.1

皆さま、日々ありがとうございます。
秋季彼岸会を過ぎて、
秋が深まっていることを感じる今日この頃ですが、
皆さま如何お過ごしでしょうか。

コロナ感染対策に終始した今年度も、
振り返りをする時期となり
私自身のありようについても今一度、
内省させて頂いているところです。

また、教会の自粛期間の解除を
待ち望むお声を耳にするに、
多くの会員の皆さまの期待に早く応えたい
というところも視点として持っております。

現在、徐々にではありますが、教会役員、
並びに諸役の皆さんと検討を重ね、
より良いかたちでの解除にむかっていこうと
しているところです。

しかし、正式な定義はされていないものの、
コロナ感染の第2波ともいえる中で、
景気喚起策も順次発表されているわけですが、
未だ感染拡大当初の対策自体が
緩和されたわけではないことを鑑み、
改めて細心の注意を払いつつ、
引き続き会員の皆さまの善き縁となることが
できる即是道場のご修行に
寄与してまいりたいと願っております。

それでは、今月も10月号佼成から
会長先生のご法話を学ばせて頂きたいと存じます。

さて、今月は
『心が変われば、生き方が変わる』
と題してご法話を頂戴しました。

前項の、『みんな同じ仏の弟子』にて、
9月号佼成にもご紹介くださいました。

チューラパンタカ(周利槃特:しゅりはんどく)
が釈尊のお言葉を素直に信じて実践した結果
「心の塵を払う」ことが大事だと悟って、
生き方が一変したという説話と共に

「心が変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人格が変わる。
人格が変われば運命が変わる」

という先の話を参考にしたかのような言葉を受けて、
運命、「めぐりあわせ」も変わり、
言葉を換えれば「縁:えん」が
変わることができることをお示し下さいました。

これは、チューラパンタカのように
大事なことに気づいて心が定まると、
縁の受け止め方が変わって、
不都合な縁であっても生かしていくことが
できるということを投げ掛けてくださいました。

そのように生かすことができればいいのですが、
できないと卑屈で捉える方に対しても
安心や希望を持たせて下さいました。

浅い受け止め方だと、
愚鈍なチューラパンタカでさえ
生き方が一変したのだから、
少しはマシな自分なら
いつでも生かす受け止め方ができる。

などと驕慢さを発揮しそうですが、
ここでは会長先生より、
チューラパンタカと同じく仏の教えをいただく
弟子の一人であることを忘れてはなりませんとあり、
それこそ同じご縁をいただくものの
希望や可能性として、「心の塵」の払い方は
人それぞれ違いがあっても、仏の教えを信じて、
行じていけば、おのずと運命が
変わっていくとお教えくださいました。

改めて、相対的に人と比べて可否を
感じることよりも、仏さまの教えを
いただいているという絶対のご縁を信じて
いくことの大切さを学ばせて頂きました。

後項では『「信じる」ということ』にあって、
《私たちはときおり心がぐらついて、
教えの軌道を外れ、自己中心の
言動に走ってしまいます。》

として、その原因を開祖さまのお言葉にある
「信仰は、ただやみくもに信ずると
いうのではなく、真理にめざめて信ずる」
から、ただ信じればいいのが信仰ではない。

「智慧」に根ざした生活を送ることが、
「仏の教えを信ずる」ことであり
「信仰」なのです。とお教えいただきました。

このお言葉を受けとめた時に、
仏さまとともにあるという実感を
お互いに語り合うことができたときほど
幸せなことは無いのではと思います。

そのような実感をもつ方々は
会長先生のお示し下さった「智慧」に
根ざした生活をされている
方々ではないかと思います。

私もご縁になる時にお互いさまに、
この「信仰」を深めることができたときに
本当によかったと喜ぶことができ、
私も一緒に共感できる私に
ならせていただいたのだと思うと
改めて感謝の気持ちでいっぱいに
ならせていただいております。

締めくくりに、
法華経の「分別功徳品」の一節を以って、

〈私たちが仏とともに
永遠のいのちを生きていることや、
みんな仏性なのだということを、
たとえ一瞬でも信じて「なるほど」と思ったら、
それだけで計り知れない功徳があるというのです。〉

この一瞬の納得のできた分のふり幅こそが、
教えの如くに生きることができる希望や
可能性なのだと思いました。

たしかに、日ごろは気持ちにもムラがあり
簡単に行ったり来たりを
繰り返していることが多いのですが、
少なくともこの一瞬だけでも
その理想のいただきを感ずることが
できた実感は何にも変えがたいもの
なのではないでしょうか。

先程の「なるほど」という納得を、
腑に落ちるという言葉と同義語とすると、

【心の据え方一つで、
いつでも仏と同じ大きな心で楽々と
生きられる人生が開けてくるのです。】

いま、ここから、より善くなることが
できることを、信ずることができているかを、
ご自身に問いかけてみてはいかがでしょうか。

そして、信ずることができていることを感じたら、
感謝でその喜びを伝えてみてはいかがでしょうか。

その行動の変化こそが楽々と生きていける
過ごし方になるのだと思います。

最後に、コロナ禍であって
大変な状況にもかかわらず、
喜びの声をお聴きすることが多くあります。

逆に、教えから遠ざかっていました、
という方もおられます。

日々の生活に自身を振り返ることの
機会がなかったのかもしれませんが、
今月は開祖さま入寂会の月です。

私たちは開祖さまの弟子として、
これまでの自分を振り返り、
特にこれまでに体験したしたことのない
状況下にありながらも、
どのような日々を過ごすことができていたのかを、
しっかりと内省の機会とさせて頂きたいものです。

まだまだ、直接お会いすることは
控える状況は続きますが、
お互いさま歩み寄ってご縁を結ぶ機会を
創造して頂けましたら幸いです。

先日もある会員さんからお葉書を頂戴しました。

近況やサンガの有り難さを
お知らせくださいました。

更に、自ら伝えようとされるお気持ちが
嬉しく安心させて頂きました。

皆さんもお顔の浮かんだ方へ
近況報告してみてはいかがでしょうか。

また、今月も元気に皆さまと共に
努力精進させて頂きたいと存じます。

皆さまどうぞよろしくお願い申し上げます。

合 掌
立正佼成会
奈良教会長 中村 浩士

 

★佼成10月号「会長法話」をご拝読ください。

【佼成10月号】

(朗読 MP3)