まほろば 奈良教会長コラム
平成26年10月度実践目標
2014.10.1
「心を落ちつけて食事に臨み、感謝を見いだし、身心ともにも健康になろう」
今年も「食欲の秋」を迎えました。日本ではいま、肥満や生活習慣病に悩む人もおおぜいいます。それは毎日の食事の習慣に起因するともいわれます。どのような習慣が身につくと健康になれるのでしょうか? 会長先生は次のようにご指導くださっています。
・「つねに心を落ちつけて、適量を知って食べる人は、苦しみが少なく、老いもゆるやかで、寿命をたもつのです」。
これは釈尊のお言葉ですが、現代人にも通じる大事なことがここに教えられています。
まず、欲望にふり回される人間の悲しさです。年齢に応じた適量を知り、一食一食、食べすぎない、ここに生き方の基本があると釈尊は示されたのです。
「つねに心を落ちつけて」とは、智慧(ちえ)に基づいてものごとを正しく観(み)たり、大きな視点でとらえることを意味しています。では、そのような目で目の前にある食事を見ると何が観えてくるのでしょうか。
動植物の生命(いのち)をいただくという現実が、まずそこにあります。
それから、自然の恵みを育て、加工し、届けてくれる人のご苦労や、食事を作ってくれる人の思いも観えてきそうです。
ある人は、貧しい生活のなかでも毎日ていねいにダシをとった味噌汁で、体の弱い自分に栄養をつけてくれた母親の思いをいま、一杯のお椀に感じるといいます。
また、一膳のご飯を前にして、自然に食欲がわいてくる健康の有り難さを思う人がいるかもしれませんし、一日に一度の食事もとれない人びとに思いを馳(は)せ、自分の現在の幸福を味わい直す人も少なくないでしょう。そして、自分はそのような人のために何ができるだろうか、と。
・惰性(だせい)で流しこむように食べるのではなく、心を落ちつけて食事に臨(のぞ)むとき、私たちは感謝にめざめるのです。感謝は生命を尊(とうと)ぶ心を養(やしな)うなど、心の健康の原点であるのはいうまでもありません。
・わが家では賞味期限の迫(せま)ったものを購入するように努めています。そうすれば、期限切れで廃棄(はいき)されるものが一つでも減ると思うからですが、そのような実践も少食の動機づけの一つになるかもしれません。
また、本会で食事の前に唱える「食前感謝のことば」は、欲に走りやすい私たちが、大切なことを思い出すきっかけになることでしょう。
「仏さま 自然の恵み 多くの人に 感謝して いただきます」と声に出して心をととのえ、食事を楽しく味わう。毎日のことだからこそ、健康的な習慣が大事なのです。
今月は、心を落ちつけて食事に臨み、毎日「食前感謝の言葉」を唱え、目の前の人や出来事のなかに、有り難いこと・感謝を見いだす練習を重ね、身体(からだ)も心も健康になりましょう。
平成26年9月度実践目標
2014.8.31
「神仏の恩恵に感謝し、謙虚に、悦びの言葉を伝えていこう」
今年は「悦びを伝えよう」を合言葉に、私たち会員の今生の目標である「明るく」「優しく」「温かい」自分づくりに取り組んできましたが、悦びが相手の心に届くのは難しかったのではないでしょうか。どのようにすれば、それができるようになるのでしょうか?
会長先生は、次のようにご指導くださっています。
・私たち人間は、生きとし生けるもののなかで唯一、言葉をもつ存在です。私たちが仏法に巡りあえたのも、およそ二千五百年前から、多くの人びとが言葉によって真理・法を伝えてくださったおかげにほかなりません。その恩恵をこうむるからこそ人間らしい生き方ができ、仏道を歩むことができる有り難さを、私たちは当たり前のようにしてすごしています。
真理に随(したが)ってものごとを見ること(智慧)も、その智慧にもとづいて人々に安心を与える慈悲の行ないも、言葉を使うことができるという恩恵を最大限に生かすことといえるかもしれません。
その意味でも、私たちはいま一度、言葉の有り難さをかみしめ、神仏からの贈りものをとおして周囲をいっそう思いやることが大切です。そして、それはそのまま法を伝えることになります。
・私たちは、言葉をはじめ人間に与えられた恩恵に対する感謝を忘れてはなりません。では、そのために何をすればいいかというと、まず「自分」を見失わないことです。
全体のなかのほんのわずかな人間、神仏に生されている自分、この自覚に立つと、口にする言葉にも自ずから「ありがとう」や「おかげさま」という感謝の心がこもります。人と人の心をつなぐのは、こうした感謝の言葉であります。
ただ、ここでもう一つ大切な点を付け加えれば、それはどのような言葉が大事かではなく、どのような自分がその言葉を発しているのかという点です。端的にいうと、いっていることとやっていることが一致しているかどうか……言葉が相手の心に届くかどうかはそこにかかっているのだと思います。人が信ずるに足る言葉とは、発するその人がどのような生き方をしているかによります。
・また私たちは、仏さまの眼から見れば、ほんのわずかなことしか知り得ない未熟者ですから、人と話すときにはつねに謙虚であることを忘れてはならないでしょう。
今月は、唯一言葉を使える存在であること、生かされていることをしみじみと味わいながら、一見不都合と思う目の前の人や出来事のなかにも、恵まれていること・有り難いこと・感謝を見いだし、人にもその受けとめ方の悦びを謙虚に伝えていきましょう。
平成26年8月度実践目標
2014.7.31
「『暑いときには暑いのがいい』」と夏を豊かに味わってすごしていこう」
夏真っ盛りになっていますが、つらく、身にこたえる夏の暑さをしのぎ、乗り越えていくのに、どのような工夫をしていますか? 仏教は、どのように乗り越えることを教えてくださっているのでしょうか? 会長先生は次のようにご指導くださっています。
・夏の暑さの激しいときには、煩悩の熱を離れて涼(すず)しい悟りの味 わいを得たいと願うがよい」とは華厳経の一節ですが、そう願えば涼しくなるというよりも、心の持ち方一つで、たとえ同じ気温でも感じ方が変わることを教えているのだと思います。
たとえば、暑さを忘れるほど何かに没頭するというのもその一つです。
ちなみに、体温を下げるという意味では少食を心がけることが大切でしょう。
・ある教育者が、夏に「『暑い、暑い』と不平をいうのはやめよう」とおっしゃっていました。暑いと口にすることでますます暑さにとらわれることへの戒めであり、暑さを忘れる一つの方法だったように思います。
・夏が暑いのは当たり前のことです。それなのに、その暑さを嫌うことが自分を苦しめているということはないでしょうか。自然のはたらきを素直に受け入れられず、かえって暑さに縛られ、いっそうつらく感じるのです。
「いやだな」という気持ちを超えることができれば、そしてさらにもう一歩進めて、暑さに対する見方・考え方を広げてみれば、その感じ方がまた大きく変わってきます。
先の教育者は、「この酷暑がお米をはじめたくさんの秋の実りを育ててくれる」といい、「暑い夏に感謝しよう」ともいわれました。
いやだなと思うことに対して感謝する……それは、苦手なことや嫌いなものを受け入れ、味わうことです。この感謝の念(こころ)が、本会の会歌の一節「涼やかに生きる明るさ」や「涼しい悟りの味わい」につながる智慧ではないでしょうか。
・日本に昔から伝わる打ち水の習慣や緑陰(りょくいん)に憩(いこ)うといった生活の知恵を生かし、簡素な暮らしを大切にしながら、「暑いときには暑いのがいい」と夏を豊かに味わってすごしたいと思います。
奈良教会では、明るく・優しく・温かい人間を目指して、一見不都合な目の前の人やできごとを「×」とみて不平を言うのではなく、真っ白で見て、受け容れ、そのなかに、有難いこと・「○」を見いだし、悦びを相手に伝える、そしてそういう努力をする仲間を増やしていくことに取り組んでいます。
今月はその学びの実践として、暑い夏を「×」にせず、そのまま受け入れ、夏の暑さのなかに有難いことを見いだし、悦びを味わって豊かにすごしていきましょう。
平成26年7月度実践目標
2014.7.1
「いま、すぐ」を心がけ、縁に随(したが)う素直な生き方を身につけよう
私たち会員は、明るく・優しく・温かい人間になることを今生(こんじょう)の目標にしていますが、毎日の忙しさに追われ、なかなか実践できず、目標さえも忘れてしまうことはないでしょうか。この志を持ち続け、目標に向かって着実に歩むために、何か自分の決めたことを、日頃の生活の中で必ず行っていけるようになるには、どのようなことが大事なのでしょうか?
会長先生は次のようにご指導くださっています。
・正受老人と呼ばれる禅僧の有名な言葉に「一大事と申すは、今日ただいまの心なり」があります。一日一日に真(まこと)を尽くすこと、そのためにも「今日ただいま」を大事に生きること、それを怠って先のことを考えても人生はおろか翌日すらないというのです。ところが、私たちは、頭ではわかっていても、実際には、「朝夕のご供養をつづけよう」とか「禁煙するぞ」といいながら、結局「あしたから」と先延ばしにし、「きょう」や「いま」をおろそかにしがちなのです。
いつ何が起きるかわからない無常の世の中にあって、「いま」をおろそかにするのは、いのちの無駄遣(むだづか)いといえるかもしれません。
・では、どうすれば「いま」を大事にできるかを考えてみましょう。
葉隠(はがくれ)という書物に「跡(あと)見よソワカ」という言葉が見られます。「跡をよく見なさい」と自問して行動をふり返り、「忘れていることはないか」「やるべきことを実行したか」と反芻(はんすう)するのです。こうした真言を唱えてみてはどうでしょうか。
あるいは、多くの人の前で決意を語るのも一つの方法です。
このほかにも方法はありそうですが、「思い立ったが吉日」という言葉どおり、昔から「時」を逃(のが)さず「いま、すぐ」にとりくむことが大事といわれるのは、何かを決断したり思い立ったりしたとき、その縁に随(したが)って素直に実践することが真理にかなった生き方といえるからです。逆にいえば、「いま、すぐ」を心がけると、おのずから真理に随順する生き方ができるということです。
・正受老人は、目の前のこと、そしてその日一日に真を尽くすと「精神すこやかにして、養生の要を得たり」といっています。禁煙も含め、健康を考えるうえでも「いま、すぐ」は大事な姿勢だといえそうです。
奈良教会では、明るく・優しく・温かい人間になるために、一見不都合な目の前の人やできごとを「×」とみて不平を言うのではなく、真っ白で見て、そのなかに、有難いこと・「○」を見いだし、悦びを相手に伝える、そしてそういう努力をする人を増やしていくことを目標に掲げてきました。さあ、そのことを日頃の生活の中で「いま、すぐ」させていただき、縁に随って素直に実践する生き方を身につけていきましょう。
平成26年6月度実践目標
2014.6.1
「地域の人びとに悦びを運ぶ私たちになろう」
私たちは、「この人」にご法の悦びをお伝えしたい、ご法の縁にふれてもらいたい、楽(らく)になってもらいたい、という「意中の人」をつくり、取り組んでいますが、なかなか容易ではありません。ご法の悦び・法悦をお伝えするには、どのようなことを心がければいいのでしょうか?
会長先生は次のようにご指導くださっています。
・自分が味わった悦びや感激を人に伝えるのは、生あるもののなかで唯一、言葉を通して悦びを他と分かちあえ、共感できる人間ですから、それはつまり自他一体観を生きることであるといえるのです。
・信仰で味わう「法悦」というと、多くの人は自分とはかけ離れた崇高(すうこう)なことと思っています。そこで、この「法悦」を「感動」と言い換えてみてはどうでしょう。日常生活のなかで感動を味わう経験なら、だれにもありそうです。しかもけっして大げさなものでなくていいのです。
たとえば、人に親切にされて「ああ、うれしい」と感謝する。あるいは、苦手だと思っていた人と自分に共通点があるとわかり親近感を覚える。これらも一つの感動です。また、本を読んで感銘を受ける、人の体験を聞いて胸を打たれるというのもよくあることでしょう。
こうした感動や悦びを素直に人に伝えることが、じつは法を伝えることに直結していくのです。
・善い行ないをしている人を見て「すばらしいなあ」と感激し、賛嘆する。仏教では、賛嘆することに大きな功徳(くどく)があるといいますが、その感激が人から人へと伝わり、伝え聞いた人がまた悦ぶときの功徳はなおいっそう大きいとされます。
「法は人によって弘(ひろ)まる」といわれるように、私たち一人ひとりの感動や悦びが、何よりも大切です。
・「言辞柔軟(ごんじにゅうなん)にして、衆の心を悦可(えっか)せしむ」…話す人も聞く人も、ともに深い悦びが得られるようなふれあいを心がけ、地域の人びとに悦びを運ぶ者でありたいと思います。
毎日の同じことの繰り返しの中に、小さな感動や悦びを見いだす練習。そしてそれを素直に口に出して伝える練習。これが、私たちがずっと取り組んでいる、一見不都合な目の前の人や目の前の出来事、「×」(バツ)に思うことに不平不満をいうのではなく、その中にこそ、有難いこと、感謝、「○」(マル)を見いだし、口に出していく練習なのです。今月は、その練習を通して、地域の人びとに悦びを運ぶ私たちにならせていただきましょう。
平成26年次 5月度実践目標
2014.5.9
「人さまに喜ばれる布施の実践で、周囲を照らす発光体になろう」
五十年前の五月に大聖堂が落成されて以来、屋上の宝塔に常夜灯(じょうやとう)が灯(とも)り続けているのをご存知ですか? 大聖堂には仏教の精神、開祖さまの願いが象徴されていると伝えられています。この常夜灯には一体、どのような精神が込められているのでしょうか? 会長先生は、次のようにおしゃっています。
・法灯明、自灯明を象徴的に示す常夜灯ですが、ここで大事なのは、私たちは一人の例外もなく、自(みずか)らを灯火(ともしび)として歩むことができる人間である、ということです。自らを灯火として歩むというのは、けっして独立自尊ということではありません。むしろ、あらゆるご縁のなかで法の灯(ひ)を掲(かか)げて他を照らし、さらには広く世を照らす存在として、生きがいをもって人生を歩むことなのです。
・他を照らす存在といえば、私たちにとって釈尊は人間の典型でしょう。ただし、人が掲げる灯明というよりは、太陽のように自ら発光する恒星(こうせい)としてこの宇宙にあらわれ、以来、多くの人がその教えの光に照らされてきました。
・では、そうして仏さまの教えをいただく私たちは、それをもってどのように他を照らすことができるでしょうか。
私は、仕事やお役など、いま自分の目の前にあることに生きがいをもって一所懸命とりくみ、人さまに喜ばれることであれば、それがいちばんのあり方だと思います。
私たちの生活の中心は布施の実践にあります。すなわち、身を使える人は身の布施を、心を使える人は心の布施を、財のある人は財の布施で人さまの役に立ち、人に喜んでもらう…そうした布施の実践こそ、明々(あかあか)と他を照らすことにほかなりません。自分の行ないによって人さまが喜んでくれれば、その時その人は釈尊と同等に、自ら光り輝く発光体、つまり尊い灯明として他を照らしているといえます。
・たとえば月に何回か三度の食を二度に減らし、そのぶんを献金させていただく「一食(いちじき)を捧(ささ)げる運動」などをとおして、無私とか無我の一端にふれることも、布施の心で生活する私たちにとっては大事な実践です。あるいは、愛語を旨(むね)とした良寛(りょうかん)さんのように、いつでも人さまの良いところを見て讃嘆しようと心がけることも、他を照らす一つの布施に違いありません。
・大聖堂の宝塔で灯(とも)りつづける常夜灯は、私たちの心に秘める姿といえるかもしれません。たとえ、小さな灯火(ともしび)であっても、いつでも明るく、あたたかな灯(ひ)で周囲を照らす者でありたいと思います。
今月も一見不都合に思える目の前の人や出来事・「×」(バツ)のなかに、有難いこと・「○」(マル)を見いだし、お伝えし、周囲を照らす、発光体にならせて頂きましょう。
平成26年4月度実践目標
2014.3.30
「人と比べず自分の尊さを自覚する、その仏さまの大きな願いに生きていこう」
人と比べさえしなければ結構幸せを感じていたのに、一旦人と比べ始めると、妬(ねた)んだり、卑下(ひげ)したり、憍慢(きょうまん)になったりして、不幸せ感や怒りを感じたりすることがありませんか。どうしたら「人と比べる」ということから脱(ぬ)け出せるのでしょうか? 会長先生は次のように教えてくださっています。
・妬んだり、卑下したり、憍慢になったりするのはなぜでしょう。
それは「大事なこと」がわかっていないからではないでしょうか。それがわかれば人と比べたりしませんから、不足によるへこみも、驕(おご)りによる角(かど)もない「まんまる」の心のままでいられるのです。
・釈尊がお生まれになったときにおっしゃったといわれる「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)というお言葉は、「広大な宇宙にあって、人間は一人ひとりみな尊厳なる存在である」ということを教えています。自己の尊厳(そんげん)を真に自覚できたら、人と比べる必要はなくなるのです。
・しかし、そうとわかっていても比べてしまう。ならば、それをいかにして人間の成長や社会の発展につなげていくか。自他を傷つけることなくプラスの力に転じるか。そうした心をコントロールする方法を仏教が教えているのであり、その信仰の生活に悦びがあります。
・他と比べないところに安心(まんまるの心)がある。目を外にばかり向けず、「自分にとってほんとうに大事なことは何か」と、自分の内に目を凝(こ)らすことを忘れないようにしたいものです。
・東井義雄(とういよしお)先生は、「大きな願いに生きる以外、ほんとうの自分に育てる道はない」といわれていますが、「大事なこと」の一つがここに示されているように思います。たとえてみれば、日々のご供養や法座をとおして、自他の仏性礼拝(ぶっしょうらいはい)の心を深めさせていただくのもそれに通じるといえます。これは、まさに仏さまの願われる自他一体の世界にほかならず、私たちが「このように生きよう」と謙虚に願うとき、自(みずか)らの仏性を開き顕(あら)わすことになります。そのように大きな願いに生きるとき、仏さまが身近なものになる。それはつまり、本来の尊厳なる自分を発見することなのです。
今月は釈尊がお生まれになった月です。釈尊が求め願われたように、まず、自分がこの世で唯一の独自の尊い存在であることを自覚し、一見不都合と思う人をも、同じように思えるように、「×」(バツ)のなかに「○」(マル)を見いだしてゆく感性を磨き、自他の仏性礼拝の心を深めさせていただきましょう。
平成26年3月度実践目標
2014.3.8
「三つの基本信行で心を磨き、優しさを身につけよう」
(基本信行…①ご供養、②手取り・導き・法座、➂ご法の習学)
今月は立正佼成会が創立された月です。創立者の開祖さまは、どんな現象にも、愚痴をいわず、泣き言もいわず、落ち込まず、相手を攻撃せず、非難も中傷もせずに、笑顔で対処され、人生を全(まっと)うされました。会員として、そのような開祖さまに倣(なら)い、明るく、温(あた)かく、優(やさ)しい太陽のような人間になることが大切な目標であり、私たちの今生(こんじょう)のテーマであるとお示しいただいています。
今月は、「会長法話」で、そのなかの「優しさ」がどのような修行をすれば身につけられるかを、次のようにご指導くださっています。
・「優しく」の「優」という字は人偏(にんべん)に「憂」えると書きます。憂えるとは、「心を痛めること」で、それは人の悲しみがよくわかることです。また、「優」の字は「優(すぐ)れる」とも読みますが、人のつらさやかなしみを敏感に察して自分のことのように思いやる、そうした心のはたらきに優れている人が「優しい人」なのだと思います。
・釈尊はこう教えてくださるのです。「あらゆる人を友とし、喜びを与えよう。苦しむ人を思いやり、手を差し伸べよう。人の幸せを念じ、ともに喜ぼう。とらわれを捨て、すべてを平等にいたわろう」
「慈悲喜捨」というこの四つの無量に広がる利他心を実践していれば、おのずと人に優しくなれるということでしょう。
・私たちは、よく「自分に厳(きび)しく、人には優しく」といいます。人に優しくすることと心を磨くことは、表裏一体という見方ができるのではないでしょうか。ほんとうに人に優しくあるには、人柄ににじむ誠実さや謙虚さ、あるいは大らかさや相手を思うがゆえの厳しさといった裏打ちが必要です。
・優しい心根をひきだし、育てるうえで大事なこととして、開祖さまは「家庭に宗教的な雰囲気があること」といわれています。それが、目に見えない偉大なるものへ畏敬(いけい)の念を育て、謙虚さや大らかさを養うことになるからでしょう。
・そして、何より、私たちは法に照らされ、サンガに磨かれるなかで人に優しくなれるということはないでしょうか。
明るく、優しく、温かな心を大切にして、困っている人の手をとり、法をよりどころとしてともに心を磨きあうなかに、優しさがあるように思えます。
今月は開祖さまのように、一見不都合と思われる人や出来事の中に、有難いことを見いだし、みんなが救われることを願い、優しい人間になれるよう、精進しましょう。
平成26年2月度実践目標
2014.2.23
『みんな、そのままで布施をしてくださっていると、感謝していこう』
今月の会長法話のテーマは、「お世話になる、ということ」です。
二月十五日は涅槃会ですが、釈尊がご自身の身の衰(おとろ)えやその死を通して、後世の私たちに、何を教えてくださったのでしょうか?
会長先生は、次のように、おっしゃっています。
・少し前の統計によると、男性は平均寿命が七十九歳に対して健康寿命七十歳、女性は八十六歳に対して七十三歳です。これは、人生の終盤になるとたいていの人が、何らかのかたちで人さまのお世話になる可能性が高いことを意味しています。
それなのに、私たちは俗に「ピンピンコロリ」といわれるかたちの最期を迎えたいと望みます。そこには、子どもたちに迷惑をかけたくないとか、人さまのお世話になるのは心苦しいという気持ちがはたらくのですが、現実は先のとおりなのです。
・しかし、仮に寝たきりで人さまのお世話になったとしても、大きくとらえるとそれはとても意義のある布施の一つではないかと思います。 病気の人は病気の姿を、年老いた人はそのありのままの姿を見せることで、あたかも観音様の救済のごとく、人に大事なことを伝えていると受けとめることができます。その人はその人にしかできない布施をさせていただいているのではないでしょうか。
・「人に迷惑をかけてばかり」と思っているその状態も、神仏からすると、じつはそのままで尊いことなのです。
私たちは、生まれたときからたくさんのご恩のなかに生かされています。あらゆる人やものと関係しあうなか、支えたり支えられたりして生きているのです。そのような大恩に対して私自身、具体的に何一つお返しできないのですが、それでもせめて自分にできることをさせていただくとすれば、それはただただ素直に「ありがとうございます」と、そのご恩を受けること以外にはありません。
人さまのお世話になるということにおいても、その考え方は同様です。お世話になることによって感謝の気持ちにならせていただける、そのことを素直に喜び「ありがとう」とお伝えすることが何よりのお返しではないでしょうか。
・また仏教では、布施をする人と布施を受ける人、それに布施するもののすべてが清浄であって初めて「布施」が成り立つと教えています。そこに血の通った交流やお互いの成長があるといえそうです。
今月も、一見不都合なこと・「×」と思う目の前の人や出来事を仏さまからするとそのままで尊い・「○」であるという見方・感性を磨かせていただきましょう。
平成26年1月度実践目標
2014.2.23
『心の眼を開き、生かされている真実にめざめていこう』
今月の会長法話のテーマは、「心の眼を開く」です。
新年を迎え、今年も毎日をすがすがしく新たな気持ちで、悦びの日々を送れますように、と願うものですが、なかなかそうはいかないものです。そのように毎日を楽しくすごすコツとは、どのようなことなのでしょうか?
会長先生は、次のようにご指導くださっています。
・ヘルマン・ヘッセの小説「シッダールタ」という釈尊の物語に「世界をそのままに、求めるところなく、単純に、幼児のように観察すると、世界は美しかった」という一節があります。ここに述べられている「単純に、幼児のように」という視点が、じつは日々を清新に楽しくすごすコツといえそうです。
・幼児はよく「これ、なあに?」と親に尋ねます。あのように純粋な気持ちで素直にものごとを見ると、それまで気づかなかったことにも目がとまり、それが驚きや感動を誘います。
この「気づく」というのは、ものごとのありのままに心の眼(まなこ)が開くことといえます。、気づくというのは、さまざまなことをとおして私たちに問いかけてくださる神仏の声をキャッチすることといえるからです。
・そして、幼児のような素直さ、疑う心や固定観念のない純粋さが、その気づきの感度を磨く…童心は道心に、通じるといえそうです。
・自分を傷つけ迷わせた周囲の言葉はじつはありがたい助言であったと気づいたとき、どん底にいた自分に光が差し、うれしくて涙があふれてきた…。「心の眼が開く」とはまさにこのような気づきではないかと、私はあらためて教えていただいた思いがします。そして、本当に苦しいときこそ、大事なことに気づく契機なのだと。
また、もう一つここで大切なことは、気づきのきっかけはなんであれ、自分にないものには気がつかないということです。ふれる縁に触発されて自分にあるものがめざめたといえるのです。
・私たちにとって大事なのは、生かされている真実にめざめることにほかならず、素直になれば、いつでもそれは可能なのだと思うのです。
今月は、一見不都合と思う目の前の人や出来事(×・バツ)を一旦白紙で見て、そのまま、求めるところなく受け容れ、ありがたいこと(○・マル)に気づき、生かされていることを実感させていただきましょう。