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まほろば 奈良教会長コラム

平成29年5月度実践目標

2017.5.1

有り難しが「ありがとう」となるよう、 

    おかげさまに気づく幸せ感を味わいましょう

 

若葉が燃ゆる、青年の月を迎えました。五月の第三日曜日『青年の日』には、多くの

青少年が平和の実践を通して「社会変革の風」を起こすことを期待したいと思います。

会長先生のテーマは、「させて いただく」です。次のようにご指導下さってます。

 

今月のテーマである「させていただく」について、仏教の篤信者として知られる工学博士の森政弘先生が、つぎのようにおっしゃっています。

「仏教では『させていただく』という受け止め方をするが、それは、なにごとも自分の力だけではできないからである」

(『今を生きていく力「六波羅蜜」』教育評論社刊)

たとえば、自分の力で立っていると思っている人も、「じつは大地の支えや重力があるからであって、何をするにしてもただ一つの原因とか、自分だけの力によるのではなく、他の力などによって可能なのである」というのです。ものごとはすべて、かかわる縁の作用で生じたり滅したりする~~~すなわち縁起ということです。このような宗教的な世界観から生まれた表現が、「させていただく」なのです。

その意味でこの言葉には、本来、私たちを常に「生かそう、生かそう」とはたらいてくださる大いなるものに対する、感謝の念が含まれているといえます。

「おかげさまでさせていただくことができます」という気持ちです。

私たちは、ふだん何気なく「させていただきます」と口にします。それは、先ほどお話ししたように、「おかげさまでとりくむことができます」「させていただけることがありがたい」

という気持ちのあらわれです。ところが、この「おかげさま」や「ありがたい」を忘れてしまうと、「してやる」といった自我が顔をだします。そこで、たとえば「させていただく」の前後に「おかげさまで」や「ありがたい」を添えると、それがそのまま素直な気持ちになります。ものごとは形がとても大事であるといわれますから、繰り返し「おかげさまで、させていただけることがありがたい」と口にしていれば、縁起の教えがしっかりと胸に刻まれ、いつでも心からそういえるようになるのではないでしょうか。理想をいうと、そうなれば「させていただく」その感謝の実践は、仏・菩薩の遊戯三昧のような、とらわれのないうれしさ、楽しさにつながりそうです。

ただ、心から「させていただきます」といい、神仏への感謝の念をもってとりくんでいることも、それが必ずしも喜びや楽しさに直結しないケースもあるでしょう。介護やボランティアの現場では、複雑な思いでとりくむことも少なくないと聞きます。だからこそ、信仰をもつ私たちは、日ごろの生活のなかで仏さまへの帰依の念を養い、「大いなるものに生かされている自分なのだ」という自覚と感謝に目ざめることが大事なのだと思います。

平成29年4月度実践目標

2017.4.1

いのち(真理のはたらき)を自覚し

ムダ・ムラ・ムリなく、相手と調和する努力を!

 

降誕会の月を迎えました。お釈迦さまのご生誕をお祝いし、お互いさま

今、いのちあることに感謝し、法の悦びを伝えてまいりたいと思います。

会長先生のテーマは、「時間の浪費」です。次のようにご指導下さってます。

 

私たちは、たとえば一日じゅう寝転んで無為に時をすごすことを、時間のむだ遣いといったりします。わずかな時間も惜しんで何かに打ち込む。それが有意義な時間の使い方であり、時間の浪費は人生のむだに他ならない、と。

「毎日を最後の一日だと思って生きなさい」とは、古代ローマの思想家・セネカの言葉です。時間をむだにしないよう、こうした心がけで日々を送ることが大事と、昔からいわれています。ただ、時間の浪費ということを天地自然に照らして考えると、時間そのものに縛られない、もっとゆったりとした大らかな視点がありそうです。

宇宙が誕生した不思議。その宇宙で、生命体が存在するための要素を具えた惑星・地球に、人間として命をいただく不思議。そしていま、天地自然の大調和のなかで生かされていることの不思議・・・・。このような大きな視点で時間の使い方を考えてみると、自分の狭い考えで「あの時間はむだ」とか「浪費だ」とはいえない気がします。

何もせずに寝転んでいる姿は、怠けているようにしか見えないかもしれません。けれども、仏法の本質からすれば、人も物もすべての現象も、どれ一つとして、むだなものはないと見えてきます。「法の体は迷悟なく、凡聖なし」という言葉もあるように、自分勝手に凡夫と聖人を分別するような見方ではない、神仏の大いなるはたらきを感じとることができます。

 

では、調和の世界に住む私たちにとって、何が「時間の浪費」といえるのでしょうか。

私たちはみな「この世に願って生まれてきた」と、法華経にあります。しかも、それは多くの人の幸せのためにと説かれています。つまり、私たちは調和の世界の一員として、みんなが幸せに生きられるよう、その調和を保つために生まれ、かつ生かされているということです。

道元禅師は「生死流転する自分の身心を省みて、自分よりも他の人が先に幸せになるようにと願う菩薩の心を起こしなさい」と書き残しています。無常、さらには絶妙のバランスでこの世を成り立たせている天地自然の不思議を観じたならば、ともに調和を築く者として、お互いに尊重しあい、仲よく生きなさいというお諭しでしょう。

日本はいま、ちょうど草花の萌え出づる春を迎えています。その草花を愛で楽しむことは、命の不思議や無常を観じる感性にも通じます。それはまた、いまを精いっぱい生きることの大事を知る機会でもあるのです。

平成29年3月度実践目標

2017.3.1

創立の精神をかみしめ、大らかに楽々と、悦びの種を

           蒔きに歩きましょう。

 

創立の月を迎えました。本会の創立をお祝いするとともに、創立の意義を深く認識し、新たな決意で精進をお誓いしたいと思います。

会長先生のテーマは、「肯定的か、否定的か」です。次のようにご指導下さってます。

 

人は、年齢とともに体のあちこちに支障が出てくるようです。私も体の痛みや、それにともなう若干の不自由を味わっていますが、そうした現実からいくら逃れたいと思っても、逃れることはできません。そして、そのようなときに心が向かう先は、まず「つらい」「苦しい」「困ったものだ」「早く元どおりに治らないだろうか」といった、いわば現状に対する否定です。体の支障だけでなく、私たちは自分の思いどおりにならない現実を不満に思い、マイナスのこととして見る傾向があるようです。野菜農家にとっては恵みの雨か、洗濯物を干したり、観光を楽しんだりする人にとっては恨みの雨になるように、心は自分に都合よくはたらくことが多いのです。

ただ、「いやだ」「なんてこんなことに」と不満に思ったところで、現実はどうなるものでもありません。ならば、「いやだ」と思うその感情をいったん離れ、客観的に、そして肯定的に現象を観察してみてはどうでしょうか。視野を広げると、心も豊かになると思うのです。

私は、「この体の痛みは、同じような痛みをかかえる人を思いやれるいい体験だ」と受けとめています。

先に「恵みの雨」と「恨みの雨」の話をしました。あれは雨という一つの現象を見るときの一例ですが、ものごとを多面的に見ると、どれほどつらく苦しいことのなかにも、必ず「有り難い」と思える要素が見出せます。なぜなら、この世に無駄なものは一つとしてないからです。仏教学者の紀野一義さんは、「現象やものごとはすべて真実のすがたをあらわしている」という「諸法実相」の教えをもとに「人が生まれたり、死んだりすることも、この世で起こるさまざまな出来事も、その一つ一つを実相として肯定していかなければなりません」といっています。つまり、私たちが見たり聞いたり経験したりすることはすべて、紀野さんの言葉を借りれば「肯定、肯定、絶対肯定」する以外に、受けとめようがないということです。

ものごとを肯定的に受けとめられないときに、自己をふりかえるポイントをおさえてみましょう。人を否定する気持ちが拭えないときには、「やさしさを忘れていないか」。現象を肯定できないときには、「素直さを失っていないか」。この二点です。自分の思い、つまり我でものごとを見るとき、人はやさしさや素直さを見失いがちなのです。

ものごとを肯定して見るとは、大らかに楽々と生きるということです。肯定的な見方と否定的な見方のどちらが幸せかは、そのことでも明らかではないでしょうか。

平成29年2月度実践目標

2017.2.1

仏教の根本に学び 「いまを大切に生きる・自ら変わる」実践を!

 涅槃会の月を迎えました。お釈迦さまをお慕い申しあげ、お互いさまに菩薩行に邁進させて頂きましょう。

会長先生のテーマは、「気にしない人」です。次のようにご指導下さってます。

 私たちはふだん、いろいろなことを気にして暮らしています。気にする必要のないことや、気にしても仕方のないことにとらわれて、悩んだり苦しんだりしていることも多いようです。日ごろ、人からの評価やうわさ話にふり回されていらいらしたり、まだ起きてもいない先のことを心配して心を曇らせたりすることはないでしょうか。

ところが、世の中にはそういうこととはまるで無縁であるかのような人がいます。それはたとえば、ものごとに頓着しない大らかなイメージの一休さんや良寛さんです。逸話で知る限り、人から悪口をいわれても気にしない、くよくよしない、悩まないといった羨ましい生き方に思えます。

では、この二人と私たちとの違いはどこにあるのかを考えてみましょう。まず思いつくのは、名誉や利得といった世俗の価値観にとらわれていないことです。私たちはつい、権威や世俗の価値に照らして人と自分の評価を比べ、さらにはものごとを損得勘定で判断しがちです。

ところが仏教では、出会う人も、身の回りで起きるできごとも、すべてが、私たちに大切なことを教える仏のはからいであると教えています。ものごとをそのように受けとめると、そこに優劣や序列や損得はありません。したがって、そういうことにとらわれる必要もないのです。一休さんや良寛さんの目には、すべてが有り難い存在と映っていたのではないでしょうか。 

一休さんや良寛さんのような「気にしない人」に本質的に変われたら、いつでも安心して生きることができます。幸いなことに、本誌を手にされているみなさんは、二人が求めたのと同じ仏の教えに縁ある方々です。諸行無常、諸法無我、一切皆苦といった仏教の根本とともに、すべてを仏のおはからいと見ることや自らを深く省みることを繰り返し学ぶことで、

「気にしない人」に自ずから変わっていくのだと思います。

ところで、私たちは気にしても仕方のないことまで気にするわりに、つねに心にとめておきたい大切なことは忘れがちです。その一つは「いま」です。過去や未来を思い煩うのではなく、「いま」をもっと大切に生きましょう。そして、人を思いやることを日々実践していきたいものです。

今月の十五日は、釈尊の涅槃会です。涅槃とは「すべての束縛から解脱すること」ですが、

束縛を放れて思いやりに生きることが、自由で明るい人生を約束するのです。

平成29年1月度実践目標

2017.1.1

水の流れるが如く、「切実な志」に随い 実践して参りましょう!

新たな年を迎えさせて頂きました。信行方針をしっかりと心に刻み、心新たに布教伝道を通して心田を耕す精進に邁進してまいりたいと思います。

会長先生のテーマは、「地道に、淡々と」です。次のようにご指導下さってます。

「一年の計は元旦にあり」といいます。年の始めに「今年はこのような一年にしよう」と胸に期すれば気持ちが引き締まり、さわやかに一年のスタートをきることができます。

ところが、元日に決めたことですら、三日もたつと忙しさに紛れて忘れてしまうのです。そこには、努力の積み重ねよりも成果に重きを置く心や、新たなことにとりくむ余裕のなさがあるのかもしれません。

「元日の雪といへども卸さねば」(広中白骨)の句が示すように、どのようなときでもなすべきことをていねいに行なう心のゆとりと落ち着きをとり戻すことが、いま私たちには必要なのではないでしょうか。時間に追われ、効率や成果にふり回されることなく、地道に、淡々とやっていく。そこに人間らしい生活やほんとうの幸せがあるように思うのです。

なにごとも急がず息まず、循々と行なっていくなかに、人としての成長があるのだと思います。ほんとうに成熟した人間の味わいは、小さなこともおろそかにしない日々の地道な営みによって育まれるものなのでしょう。

目先の損得に左右されず、落ち着いて淡々と、着実になすべきことをなす。そのように生きることができればいつも心穏やかでいられ、人間としての向上も期待できそうです。しかし、胸に期したことを継続すること一つとっても、それがとても難しいのが私たちの実際かもしれません。

仏道修行で大切なことは何かと聞かれた道元禅師は、「仏道を学ぶのに才能は必要ありません。志を発して自分の分に随って学道に努めれば、必ず仏法を得ることができます」といいきっています。ただし、「欣求の志の切なるベき」、つまり、つねに、そして繰り返し求める気持ちが大切だというのです。あれをしよう、これをしようと一念発起したつもりでも、そのもととなる「切実な志」がなければ長つづきしないということでしょう。

見方を変えれば、志に随っていま目の前にあることの一つ一つにていねいに向きあえば、その歩みはたとえ地道ではあっても、必ず実を結ぶということです。また、志があればものごに一喜一憂しない余裕が生まれるので、落ち着きのある淡々とした生き方にもつながるはずです。

道端のゴミを拾う、「足るを知る」を心がける、三つの実践としていつもお話しする。「朝

のあいさつ、ハイの返事、履物を揃える」というのもいいでしょう。身近でできることを地道にこつこつと、できれば目立たぬように淡々と実践することなのです。お互いさま、一日

一日を大切にし、年の終わりには楽しい嬉しい一年にいたしましょう。

 

平成28年12月度実践目標

2016.12.7

懺悔と思いやりの心の繰り返しによって、

    常に 本尊に愧じない 生き方を!

 

十二月、釈尊成道の月そして奈良教会発足の月を迎えさせて頂きました。二十八年度を懺悔と感謝の心で、布教精進に務めたいと思います。

会長先生のテーマは、「仰いで 天に愧じず」です。次のようにご指導下さってます。

 

 年末年始は、何かと人が集まる機会がふえます。そのようなとき、たとえばみんなでおやつをいただくとします。それはだれもが大好物のお菓子なのですが、ただ大きさが大小まちまちです。さて、あなたは大きいほうと小さいほうのどちらに手を伸ばすでしょうか。

仮に「大きいほうがいい」と思っても、おそらく多くの人が比較的小さなお菓子を手にとるように思います。なぜなら、欲望まるだしの態度は人として恥ずかしいという気持ちがはたらくからです。

 これは、ごく卑近な例ですが、私たちはこのように、自分が恥ずかしいと思うことや、自分にやましいことはしないという心の姿勢を、「恥を知る」という言葉で昔から大切にしてきました。ある学園では、「恥を知れ」を校訓にしています。自分の良心に恥じない生き方を身につけることが、人間教育の基本でもあるということでしょう。

法然上人は「はづべし、はづべし。かなしむべし、かなしむべし」と、ひたすら自己を省みる言葉を残しています。日本の偉大な碩学として知られる安岡正篤師によれば、人間の人間らしさとは、一つには尊いもの、偉大なるものを求めるところにあり、そこに敬する心が生まれるといいます。さらに、その心が発達すると「自分の低い現実を顧みてそれを恥ずる心が起こる」というのです。宗教的にいえば、信仰が深まれば深まるほど厳粛に自己をみつめ、懺悔せずにはいられないということでしょう。法然上人の言葉は、まさにそれを証明しています。神仏を仰ぎ、敬い、神仏と向きあうときに生まれる「自分はまだまだ至らない」という慚愧の思い。それは、釈尊が「恥じることを知る心は、どのような衣服よりも人を清く、美しく飾る」といわれるとおり、私たちの人間的成長に資する原動力となるのです。その意味で「仰いで天に愧じず」とは、偉大なるものに少しでも近づこうとする人間性豊かな生き方といえるのです。

 とはいえ、それは特別な生き方ではありません。神仏にも、人にも、自分にも、いつも誠実を旨として生きることが大切だと思います。人には礼を忘れず、当たり前のことを当たり前に行なう。そして、人を思いやる心を忘れなければ、やましいことのない晴れやかな心で日々を過ごすことができるのです。

 それでも、道に迷いそうになることがあったら、まず人さまの心を大切にしましょう。素直に人のために働いているときに、自分の利益を先にする気持ちは起きないからです。人は、懺悔と思いやりの心の繰り返しによって、少しずつ成長していくものなのかもしれません。

平成28年11月度実践目標

2016.11.1

 開祖さま譲りの笑顔で、

     「すべては自分」 「まず人さま」の心  、 菩薩の生き方 を!

 

十一月、開祖さま生誕会の月です。開祖さまのご生誕をお祝いするとともに、開祖さまの

ご因縁をかみしめ、報恩感謝の実践をさせて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは、「笑顔が幸せをつくる」です。次のようにご指導下さってます。

 

昔から「笑う門には福来たる」といいます。いつもニコニコしていて笑いが満ちている家庭には幸福が訪れるという意味です。家族が笑顔でいられるのはそれだけで幸せだと思いますが、今年の本誌六月号(「開祖法語録」)によると、「いつもニコニコしている秘訣は何か」と問われた開祖さまは「いつも裸でいるからですよ」と答えています。

我の鎧兜を脱いで裸になる、つまり正直になると、気持ちが楽になります。そうなれば、どのようなときも笑顔でいられる~~。それが、本会内はもちろん、外部の方からも「庭野スマイル」と呼ばれるほど印象に残る、開祖さまの笑顔の理由の一つのようです。

ただ、開祖さまも人間です。笑顔を忘れるほどつらいことや悲しいこともあったはずです。私の記憶では、笑顔が開祖さまの代名詞のようになるのは、中高年になってからのような気がします。事実、わが家のアルバムに収められている開祖さまの写真を見ると、若いころのものにはほとんど笑顔が見られません。本会の創立当初はもちろん、WCRP(世界宗教者平和会議)を発足してからのさまざまなできごとを思えば、当時は笑顔を浮かべる余裕などなかったのかもしれません。

機関誌の記事のなかで「開祖さまは、受けがたいさまざまな困難に出合われても、ニコニコとお受けになられた」と語っています。また、開祖さまの笑顔に関する別の記事は、「笑顔の奥に、悲しみや怒りや無念さを抑え、笑顔に昇華する修行がある」と伝えています。

開祖さまにとっては、「ニコニコ顔」もまた一つの精進であり、それがやがてほんとうの

笑顔に昇華されていったということでしょう。見方を変えれば、それはつらいできごとをすぐに笑顔の種に変えることができる信仰であり、そこに幸せがあることを身で示してくださったともいえます。

 

笑いには、体温を上げて免疫力を向上させるといった健康効果があるといわれます。さらに笑顔には、そこにいるみんなを仲よくさせる調和の効果があると思われます。笑顔は、自分が幸せになる精進の一つであると同時に、みんなの幸せを願うところに生まれるものでもあります。

外部の方が、よく「佼成会の信者のみなさんの笑顔がすばらしい」と評してくださいます。たいへん有り難いことですが、それはきっと普回向の精神による菩薩の笑顔に違いありません。それはまた、今月、生誕一一〇年を迎える開祖さま譲りの笑顔ともいえるのでしょう。

平成28年度10月度実践目標

2016.10.1

祈りの先にある、

仏の願いを常に忘れず、方便力を駆使しよう!

 

十月、開祖さま入寂会の月です。ご入寂された開祖さまを偲び、「追慕・讃歎・報恩感謝・継承・誓願」の心をもって、報恩感謝の実践に努力精進させて頂きたいと思います。

会長先生のテーマは、「祈りの先に・・・・」です。次のようにご指導下さってます。

 

古い川柳に「神仏に手前勝手を申し上げ」とあるくらい、人はいつの時代も、神さまや仏さまに願いをかなえてほしいと祈ってきたようです。現に、私たちも「入学試験に合格しますように」「病気が治りますように」などの願いをこめて手を合わせ、神仏に祈ることが少なくありません。

かつて開祖さまは、「信仰というと、苦からの救われや願望成就を願って神仏に祈ることと考えられがちです」と述べたうえで、「神仏に祈るだけでなく、仏法すなわち真理に随順した生き方を目ざす」の信仰と明言しています。

仏法を信じて身につけ、自分が仏になる、自分が仏であることに気づく・・・。仏教の信仰はその方向にあるということです。そもそも、自分が仏であると気づけば、神仏やほかのだれかの力を恃み、「救っててください」と祈ることはなくなります。それが、自灯明・法灯明の教えに基づいて生きていく仏道というものであります。神仏への祈願を当たり前のように受けとめがちな私たちですが、仏教にしても神道にしても、信仰の本質は祈ることを必要としないところにあるということでしょう。少なくとも「手前勝手な」願いは真の祈りではないことになりそうです。

「祈り」とは、いのちの最も奥深くから催してくるものといわれます。祈るという文字には

「声をあげて神に福を求める」という意義もあるようです。ですから、とくに他の人から発せられる「苦しみから抜けだしたい」という声や思いをまごころで受けとめていくのは当然のことです。

一方で、私たちは祈願の先にある大事なことを、つねに忘れてはならないと思います。その大事なこととは、「生老病死は人生につきものである。だからこそいま生きていることの有り難さに気づいてほしい」という仏の願いです。

苦から抜け出したいと祈る人に、私たちはたとえば「法座に座ってみませんか」「祈願供養をしましょう」とお伝えし、ときには同じ悩みに苦しむ人のもとを一緒に訪ね歩いたりもします。それらはすべて、いま申しあげたこと、つまり仏の願いに気づくための、いわば方便です。本会の基本心行の一つである朝夕の読経供養も、その実践をとおしてつねに仏さまの心にふれ、自灯明・法灯明の教えを基本にして生きるための行法といえます。

お願い参りも祈りも、それら神仏と向きあう機会はすべて、仏さまが「大切なことに気づくように」と願って与えてくださった契機です。そのことをよくかみしめて、日々の暮らしのなかでともどもに信仰を深めてまいりましょう。

平成28年9月度実践目標

2016.9.1

平成二十八年九月度実践目標

 先輩から受け継いだこそ

   “道場観の修行の基本”と心得、実践を!

 

十日は、脇祖さま報恩会です。脇祖さまの慈悲の生涯を通して、身近な先輩の菩薩行

に学び、報恩感謝の心で悦びの布教に邁進したいと思います。

会長先生のテーマは、老いの輝きです。次のようにご指導下さってます。

 

 いま日本には、後期高齢者と呼ばれる七十五歳以上の人が千六百四十一万人いるそうです。私もそのうちの一人ですが、この後期高齢者の後期いう言葉に、輝(く)の二文字をあてて光輝高齢者と書いた書面を頂いたことがあります。七十五歳をすぎて、ますます光り輝く 高齢者が元気に活躍するイメージが伝わり、気持ちが明るくなります。しかし、活動的で溌剌とした人だけが光り輝く高齢者なのかというと、必ずしも

そうではないところにデリケートな問題があります。

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 涼しかりけり。道元禅師の有名な歌です。この歌は、春夏秋冬のそれぞれが、ありのままに独自の輝きを放っていることを伝えています。すべてが天地自然のはたらきであり、それぞれがすばらしいということでしょう。

 この視点に立つと、スポットライトを浴びるような活躍をすることだけが光り輝くことではなく、人生における晩秋といえる高齢期においても、一瞬一瞬をありのまま、素直に受けとめているかどうかが大切であります。

 つまり、元気に活躍することもさることながら、自分がいまあることそのものに目を向け、そこに映る輝きや有り難さに気づいている人をこそ、ほんとうの意味で光り輝く高齢者というのではないかと思うのです 

 老いには、ほかの世代にはない輝きがある一方で、つらいと思わせられる現実があることも否定できません。当人のみならず、高齢の家族の介護をされている人からすれば、光り輝く高齢者という言葉もきれいごとに聞こえ、むしろお金もかかり、面倒なこともと、やり場のない思いを溜めこんで苦しんでいる方もおられるでしょう

 ただ、人にはいえない苦労や複雑な思いを抱え、愚痴をこぼしながら、それでも元気になってほしいと願う。心の奥底で、一所懸命に尽くしたいと思う。そういうあなたの深い思いやりの心を呼び覚ましてくれたのは、間違いなく介護を必要とするその家族です。だとすると、介護をする人の慈悲心に灯をともすきっかけとなった家族の姿こそ、光り輝いているにふさわしいと私は思います。

 教会道場で学んだ仏さまの教えを家庭や社会で発揮する。それが一人ひとりの生きがいとなり、周囲からも喜ばれる。お互いに助けあうことも、声をかけあうことも当たり前で、道場には思いやりがあふれている。道場で見られるそのような光り輝く高齢者は、きっと若い世代の方々の目標となり、地域においても大切な役割を果たすのではないでしょうか。

平成28年8月度実践目標

2016.8.1

三つの実践、三つの基本信行は、“まず 自分から”という

思いやりの心・ほとばしりの心で!

 

十五日は、戦争犠牲者慰霊・平和祈願の日です。また、今年から施行される国民の祝日「山の日」を通して、天地自然の恵みに感謝したいと思います。

会長先生のテーマは、「まず自分から」です。次のようにご指導下さってます。

・私はときおり自宅の周辺で、道路に捨てられたゴミを拾うボランティアの若者たちを見かけます。じつに清々しい光景です。私も散歩がてら、妻とともに道に落ちているゴミを拾い集めたことがあります。そのときに気づかされたのは「捨てなければ拾わなくてすむ」という当たり前のことですが、そのおかげで「私はけっして捨てまい」と心に刻むことができました。同時に、道が汚れて気になるのであれば、人を責める前に「まず自分から」行動おこせばいいということを教えられた気がします。

気づいたら、まず自分から~~ゴミ拾いに限らず、それは気持ちのいい日常生活をおくる手立ての一つです。そこで大事なのは、その行ないが自然な心のはたらきであること、そして実践する自分がそれを楽しいと感じることだと思います。

私たちは、みな仏の御いのちをいただいている菩薩です。ですから、「している」という意識や、「させられている」という不満があると楽しみにはならないでしょう。大自然が無償の恩恵を注ぐように、困っている人がいたら自然に手を差しのべ、汚れている場所があれば率先してきれいにする。そしてそれが楽しいという以外、何もとらわれるものがない。仏の遊戯三昧にも似たそういう心であることが、「まず自分から」の実践ということになるでしょうか。

・この春、熊本県を中心に大きな地震が発生しました。だれにいわれるでもなく物資を届け、話に耳を傾け、一緒に涙して苦しむ人を励ましつづけた方々。そのなかのお一人は、「自分がなぜ、寝食も忘れてそうするのか、自分でもわからない」と語っておられたそうです。

「仏は慈悲して慈悲を知らず」という言葉がありますが、自らの心に突き動かされ、そうせずにはいられない。だから、けっして苦しいともつらいとも感じず、むしろそのご縁を喜びと受けとめて走り回っておられる様子が目に浮かびます。

「まず自分から」と率先躬行し、あるいは「まず人さま」と心を砕き、まさに心の銘じるまま、とらわれることなく、喜びをもって救いに奔走されたみなさんの、こうした話をうかがうと、一人ひとりの思いやりが実践にうつされたとき、そこにどれほど大きな安心が生まれるのかをあらためて教えられた思いがします。

家族を労り、まわりの人を思って「まず自分から」心を寄せ、力をあわせるなかに、みんなが気持ちよく生きられる平和な世界が訪れるのでしょう。また、平和という意味では、積極的な行動だけがそのための「実践」ではなく、批判したくなるような人や許し難い人を包容していくこと、そういう意識の変革も、私たちの大切な実践行ではないでしょうか。